企業教育 学校教育

夏休み終了

 猛暑、大雨、雷、ゲリラ豪雨・・・・極端な気象の影響を受けた今年の夏でしたね。(過去形で語ってしまいましたが、本州はまだ夏継続中のことでしよう。)
 こちらは、雨ふりの寒いお盆となりました。
紫陽花とコスモスが同時に咲く北海道。
ススキの穂も開き始め、短い夏が終わりました。(たぶん)
私の勤務も17日から始まっております。
夏休み開け初日は、寒さのあまりタイツ着用で出勤しましたよ。
 さて、このブログも、元の道に戻って戦後の教育史の続きを綴ってゆきましょう。

 参考にしているフォト・ルポルタージュ『子どもやがて悲しき50年』のちょうど真ん中あたりまでをブログで綴ってまいりました。


「消された学校『巨摩中学校』」の次のページを開きましょう。

するとこの写真です。

テーラー・システム」

 これば、関西電力の社員養成所での写真(1964年)です。ここにきて何故、学校教育ではなく、社員教育と思いますが、編者の村上義雄氏はこの社員教育のあり方が、その時代の向かうところを強く伝えていると感じたのでしょう。
この写真の説明です。

兵庫県尼崎にあった関西電力の社員養成所。中卒の新入社員に‘’精神と技術‘’の特訓を行なった。こうした学校は、当時全国に1万8000校あったといわれる。世界の学校カリキュラムは1910年代に工場生産の「テーラー・システム」をモデルとして作られたというが、日本の‘’企業戦士‘’を育てる教育は今でも脈々と続いている。

 文中の「テーラー・システム」をWikipediaで調べてみました。詳しい説明の極々要点のみをまとめました。


※ テーラー・システムは日本語では、「科学的管理法」と呼ばれます。
アメリカ人技師フレデリックテーラーが20世紀初頭に提唱し、その後発展してきた労働管理の方法です。

管理についての客観的な基準を設けることによって労使間の不信を取り除き、協調体制を構築し、相互の共存共栄を目指すことができると考えれたのです。
大まかなあり方としては、確かな計算によるノルマを設定し、成功に対して報酬を与え、不成功に対しては減収で応じるというものです。
これは産業の近代化の基礎となりました。

     *   *   *   *   *
 坊主頭を同じ角度で下げて並ぶ社員たちの写真は、そのまま「テーラー・システム」とはつながらないのかもしれません。
しかし、「管理」はテーラー・システムの提唱以降、企業の人材育成と直結するようになりました。
この写真はその流れの中で出現した一枚といえるのでしょう。

 テーラー・システムの提唱が1910年頃、
 この写真の撮影は、1964年、
 そして今は2018年
・・・・成果主義による報酬、ブラック企業社員教育、果ては過労死
労働のあり方はあまりにも昔のまま・・・そのように感じた私です。
(悪くなっていると感じる人も多くいらっしゃることでしよう。)

学校も同じ仕組み

 テーラー・システムをスクロールしていたら「テーラー・システムと授業」という、まさしくこのブログにフィットしそうなタイトルを見つけました。
佐藤学氏の名前にもビビッと惹かれました。
http://makoto.ti-da.net/e2904654.htmlmakoto.ti-da.net 
 
貼り付けた上で、一部引用します。

 近代的な労働管理の方法である「テーラー・システム」は直接的に学校の経営と授業展開に影響を及ぼしています。シカゴ大学でカリキュラム研究の科学化を推進したボビットは、テーラーの『科学的経営の原理』(1911年)をそっくり援用して、カリキュラムと授業と学びの過程を科学的に統制する方法を提唱しています。ボビットはテーラの「生産目標」を「教育目標」に置き換え、アセンプリ・ラインの最後の「品質管理」の「テスト」を教育過程最後の「テスト」に置き換えています。実際ボビットは学校は「工場」であり、校長は「工場長」であり、教師は「作業員」であり、子どもは「原料」であり、卒業生は「製品」であると言っています。学校を「大工場」と重ねる私たちのイメージは歴史的に根拠のあるものなのです。

 なるほど・・・ここにもつながりますね。
kyokoippoppo.hatenablog.com

 テーラー・システムは20世紀の世界中の学校のすみずみまで浸透していると言います。
私たちはそれが浸透していると意識することもないほど、学校はこういうところで、授業とはこういうものと刷り込まれております。
それが脈々と継承されているということは、やはりそれが合理性、客観性に優れていて理にかなっているからなのだとは思います。
しかし、そのあり方は本当に「ひと」に「子どもたち」に貢献するものか?と問えば言葉に詰まるのではないでしょうか?
 教育のあり方を考えるときに、それと一体化した「テーラー・システム」を一旦はずしてみることは大変有意義だし、新しい展望をもたらすものだと思います。生易しいものではなく、自分の内なるものの改革なしには取り組めないものでありましょう。
日々教育現場に足を運ぶ私が語るなど、矛盾以外のなにものでもないのは承知です。
でもそれを試みようとする教育に惹かれる私なのです。
   *  *  *  *  *

 昨日は寒いはずでしたよ。タイツをはきたくもなりますよ。
8月17日道新夕刊の記事です。

北海道中央に位置する大雪山系黒岳初冠雪の記事でした。
今日はほんのり暖かくなりました。

手拍子そろえてチャチャンコチャン🎵

すっかり寄り道

 戦後の教育史をたどっていたのに、そちらは「消された学校巨摩中学校」で留まっております。
そしてすっかり寄り道をしております。
前回は北海道の七夕祭りについて書きました。
kyokoippoppo.hatenablog.com

 寄り道ついでに今回は、北海道の盆踊りについて書いてみます。

 私が、こちらに嫁いできたのは34年前(1982年)の6月でした。
北海道の一番気候の良いときで、かっこうは鳴き、花が一斉に咲き、天気は爽やか・・・
実に気持ち良く「ああ、私は今北海道で暮らしているんだ!」と新鮮な心持ちになったことを覚えております。


 そして夏・・・・繰り広げられていた盆踊りも新鮮でした。
本州で体験した盆踊りとは色々違っていたからです。

なんという歌詞!

 私が育った神奈川では、東京音頭あり、炭鉱節あり、オバQ音頭あり・・・・ほかにも様々な曲が流れ、都度踊り方も違い、やぐらの上の人の振りを見ながらやっとこさっとこ身体を動かすのが精一杯でした。

 ところが、こちらの盆踊りは二種類の歌が、民謡同好会のメンバーによる生歌で歌われ、踊りは始めから最後まで変わらず。
覚えたら、もう、心地よく身体を動かしていれば良いのです。そう、気持ちが良いのです。
その二種類の歌なのですが、一つは「北海盆歌」
もう一つは「北海よされ」(というらしい)
で、これも記憶が定かでなく、正確な歌詞はわからないものの、とにかくエロい歌詞だったのです。
「姉と妹に紫着せて~どちらが姉やら妹やら」・・・これは今も聞くことができる歌詞なのですが、当時は
手を伸ばしたらくるりと返って、男きらいか?男きらいじゃないけれど~・・・・・みたいな
そんな内容の歌が、耳に入ってきたのです。
こんな色っぽい歌がのびやかに歌われ誰もそれを何とも思わず踊っている。
びっくりして、感激しました。異郷の土地にやってきたことをしみじみ味わいました。
http://www.onitoge.org/bonodori/15yosare.htm

 

手拍子そろえてちゃちゃんこちゃん

 もう一つ北海道の盆踊りの特徴は、子ども盆踊りというものがあることです。これは大人盆踊りと区別され、別立てで行われます。そして、この踊りも曲と振りが決まっており、その振りで始めから終わりまで続けられるのです。
こちらも一度覚えたら身体が勝手に動くほど簡単、可愛らしく楽しい振り付けなのです。


 大人盆踊りより早い時間に始まり、最後には参加者にお菓子が配られ子どもの部は終わりになります。大人盆踊りや仮装盆踊りが予定されているときはその後続けて始まります。
入賞した際の豪華商品を目指して、奇抜で楽しい仮装をこらした老若男女が繰り出すのです。

ベッチョ節

 2016年4月21日の道新(北海道新聞)に子ども盆踊りについての記事が、その後7月16日には北海盆歌についての記事が載っておりました。
私の関心事であったので切り抜き保管しておきました。 f:id:kyokoippoppo:20180810050324j:plain:w320:left


ご存知の通り、北海道は本州からの移住者によって開拓が進められてきました。ですから当初はそれぞれの出身地の踊りが思い思いの流儀で踊られていたそうです。
 道教大名誉教授で道民謡連盟最高師範の吉田昭穂さんの言葉を借りれば、’’盆踊りの博物館といった状況’’だったそうです。
昭和の始めころから統一への動きが起こり始めます。




北海盆歌の誕生は、道内を代表する民謡家今井篁山さん(02~83)が40年に幾春別炭鉱の盆踊りを訪れて、その熱狂的な雰囲気に圧倒されたことがきっかけでした。日中戦争の真ただ中で、炭鉱は増産政策の下で全盛期。音頭取りが歌うベッチョ節は、男女の性をあからさまに表現してはばかりませんせした。「地底で命を張って石炭を掘る鉱員にとって、明日への活力だったのでしょう」と吉田さんは言います。

    (2016・7・16の道新記事より)
・・・ほほう、私が聞いて心に留めたのは’’ベッチョ節’’だったのね。さらにその「ベッチョ」
の意味を知るに及び、何ともあからさまなと思った次第です。(ご存知でしたかね?調べてみてくださいな?)

健全な歌詞に・・合わせてそして教育的配慮を・・

 北海盆歌は、戦後の復興期に今井篁山氏によって歌詞が健全なものに改められ、「北海炭鉱節」として発表されました。
後59年には歌手の三橋美智也が「北海盆歌」の名で歌いこちらがブレイクしたのです。
ドリフターズの「8時だよ全員集合」のオープニングにも使われましたのでそちらに馴染みがある方も多くいらっしゃることでしょう。
 
 このような健全化の流れにのって誕生したのが「子ども盆踊り唄」です。
 1952年5月、江別の童謡詩人坪松一郎作詞、山本雅之作曲、持田ヨシ子の歌声で全国に発売されたそうです。

 そよろそよ風 牧場に街に
 吹けばチラチラ灯がともる
 赤くほんのり灯がともる
 ホラ灯がともる
 シャンコシャンコシャンコ シャシャンがシャン
 手拍子そろえて シャシャンがシャン

炭鉱節に詳しいノンフィクション作家の前田和男さんは「最北辺境の労働環境は厳しく、苦しさを吹き飛ばそうと歌う歌も、本州の歌を圧倒する猥雑さだった」と指摘します。大人と子どもの盆踊りを分ける北海道独自のスタイルがこうして生まれたのです。

 2016・7・16日の道新より

その後・・

 調べてみますと、北海盆歌の歌詞も町々によってちがいがあるようです。少しずつバリエーションが違っていたりするのです。
 健全化に押されて歌われなくなったベッチョ節ですが、なごりを留めるものもあるようですね。


 わたしが30年以上前に聞いた「男きらいじゃないけれど~」は幻だったか、記憶違いか?検索をかけても見つかりません。

 子ども盆踊りの歌詞は、レコード発売後無断で歌詞が8番まで補作されたそうです。
坪松氏の遺族が会社側と協議し、2002年の原盤に復帰したということですが、シャンコシャンコシャンコのところは、補作で使われたチャンが定着してしまった感がありますね。

 発掘したらまだまだ知られてない北海道の歴史や、炭鉱の風物詩がでてきそうですね。
関連記事二つ貼り付けました。
Yahoo!ブログ サービス終了
下記にはベッチョ節一例が紹介されています。
photo2519.exblog.jp

ろうそくだせ

『桐の花』『グスベリ』

(このブログ七夕の日に間に合いました。)

 石森延男によるこの本が大好きでした。f:id:kyokoippoppo:20180806154929j:plain:w200:right
石森氏の幼少期の思い出が語られております。
読んだのは高校生の頃です。
文章が素晴らしく、楽しく共感を呼ぶお話がたくさん。
読むと風景や様子がまざまざと目にうかぶのです。
個人的な思い出や体験が、このように他者の共感を呼ぶのは何故でしょう。
これを見事に文章にしたものが、「グスベリ」の巻末にありました。
以下は森田たまさんの文章の一部です。

南国九州に生まれた者も、北の果て北海道に生まれた者も、心の底には通ひあふものを潜めている。
これは世界各国のあらゆる人について云へることではないだらうか。人間といふもののすべての心に住んでいるもの、それを実に見事に石森さんは描き出してくれている。石森さんの『グスベリ』はわらべうたであり、少年の詩である。これを読んで童心を誘ひ出されぬものががあるだらうか。これは子供の本であると同時に大人の本でもある。

(原文のまま旧かなづかいで書きましたが、『い』の字は変換されず『い』で書き表しました。)

 舞台は北海道・・・・・その頃の私にとっては未知の土地でした。
『グスベリ』に収められている「たたなばたまつり」も印象に残りました。
北国には竹が育たないので柳の枝に短冊を吊るすということを、これを読み知りました。
飾るものは本州のものと似たようなもので、色紙を色々な形に切ったり、折り紙でだましぶねややっこさんを作ったりして下げるのです。

たんざくには、「天の川」と書いたり、「たなばたさま」とかいたり、「ひこ星」「はたおり姫」と書いたりしました。みんなすみをすって筆で書くのです。
 わたしは、画用紙を小さく切って、それに鳥の絵や魚の絵をかいてさげようと思いつきました。
「そんなものかいたら、いけないわ。」
姉が、こういってとめました。
「どうしていけないの。」
「だってお星さまにあけるんだもの、ふざけちゃわるいわ。」
わたしはべつにふざけるつもりはなく、かえってにぎやかになっていいと思いました。お祭りらしい気持ちになると思ったからでした。〈鳥は空を飛ぶものだし、魚は天の川にもいるだろうし、お星さまだって、べつに悪くは思わんだろう。かえってこんな絵を見て、お星さまも喜ぶかもしれんぞ。〉
 姉にとめられましたが、わたしはどんどんかきました。ちがったものをたくさんかきました。チョウチョウやカブト虫やトンボもかきました。おしまいには、カエルもトカゲもブダもかきました。姉はあきらめたらしく、もうこごとはいいませんてした。

短冊を飾りつけた柳の枝を、弟とかついて歌います。
「たけに たんざく
たなばたまつり おお いや いやよ
ろうそく 出せ 出せよ
出さないと かっちゃくぞう」

夜になると、ほおずきぢょうちんに火をつけて、町の、通りをねり歩きます。子どもたちは、とこの家ということなく、玄関先にはいって行っては、ろうそくをねだるのです。

 歌のはじめが、「たけにたんざく」とあるので内地のほうの歌が伝わってきたのではないか?と石森氏は書いていますが、私はこのたなばたの様子を北海道の風習のようにとらえ、心に残したのです。

子どもたちの七夕イベント ~ろうそく出せ

 その数年後、私は結婚し、なんと北海道に住むことになりました。
 そしてある8月7日の夜、近所の子どもたちがやって来たではありませんか。
「ろーそくだあせ、だあせえよ🎵」

わあ、本当に来るんだ!
用意のなかったためビックリです。
子どもたちは「ろうそく出せ」と言いながらお菓子をねだるようです。
その時は、たまたまあった飴の袋を、みんなで分けてと渡したのではなかったでしょうか。

 我が子が生まれ、もの心ついた頃、私は近所の同じくらいの年齢の子どもを持つ親たちと相談しました。
この「ろーそく出せ」のイベントを体験させてやりたかったのです。
でも、夕方どこの家にでも押しかけるのは迷惑です。参加したい家庭どおしで、このイベントを行うことにしました。
子ども一人に50~60円くらいのお菓子を用意して、やって来た子どもたちにあげるのです。
二十人ほどの子どもが、集まっても1000円ほどの出費ですみます。
 大抵その位の人数が集まり、十数軒ほどの家を回りました。その夜は子供会の花火が予定されていたりして、七夕は子どもたちにとって楽しい一夜となるのです。
 次の日からは、手に入れた袋いっぱいのおやつを食べ食べ、残り少なくなった夏休みを過ごすのです。
 (北海道の夏休みはお盆頃までです。たなばたを過ぎるとあと残りは一週間ぼど)

 お盆を過ぎる頃には、冷涼な風が吹き、空が高くなり、秋の気配が一気に押し寄せてくるのです。
この七夕のイベントは、私の子育て真っ盛りの時期の思い出として、今でも懐かしく思い出されます。

思い出のマーニー

 まず原作本と出会いました。

思い出のマーニー〈上〉 (岩波少年文庫)

思い出のマーニー〈上〉 (岩波少年文庫)

とても、とても、とても良くって図書館のカウンターで語ったのです。
「映画化されても良いかもね。」
「あら!これ映画になったのよ。だから目立つ所に置いてあったの。」
あらあ、そうだったんですね。

 私は期待しつつも、大好きな作品が映画によって味を損ねてしまうのなら嫌だなあとも心配していました。
イギリスを舞台にした原作なのに、映画では浴衣姿の女の子が出てくるみたい・・・・ううむ。どうなのかなあ?
そして、見に行きましたよ。
・・・・・・・素敵でした。大変気に入りました。DVDも買いました。

舞台は違えど原作のテーマが損なわれることなく伝わりました。
それでいて、違う味わいを持っ別作品として成り立っているなあとも思いました。


 原作の舞台は湿っ地(しめっち)です。
一方映画の舞台は北海道釧路のあたり。
そこで少女「あんな」はひと夏を過ごすのです。
七夕の夜、子どもたちは、ねりあるきます。
「ろうそく出せ だせよ。」と。


 ああ、北海道の、七夕だ。
もちろん映画の舞台はあくまでも釧路を描きながらも「とある場所」なのでしょうけど、私は「北海道の七夕だ!」と思ったのです。


 高校生の頃、子育ての頃、4年前の映画封切りのころ・・・北海道の七夕祭りの風景が、私のこれまでの人生に思い出深く、印象深く姿をみせることに感慨深い気持ちをいだくのです。


 今年もまた七夕の夜がやってきました。
残念なことに、ご近所ではこのイベントはとだえてしまったようです。
   *  *  *  *  *
 この方はマーニーの映画と炭鉱の写真集がつながったようです。
人それぞれが、それぞれの自分の記憶や思い出に思いを馳せるものなのですね。
共感できるブログでした。

ameblo.jp

夏休み

夏休みだあ!

お断りしておきますね。個人的なことのみのブログです。

 私にしては短いサイクルでブログを更新しております。それには訳がありまして、一連のブログ、「長浜氏の理念を手がかりに」を8月7日までに仕上げたいと思ったからです。
 8月7日は旧曆7月7日の時期に会わせたひと月遅れの北海道の七夕の日。(地域によっては日にちを合わせた7月7日に行うところも---)

 七夕ネタで一つブログを書こうと考えているため、矢継ぎ早に発信してゆきました。
夏休みに入ったこともあり、自由に使える時間も増えました。
貴重な夏休み・・・・友とのミニ旅行、草取り、孫のための浴衣を縫ったり、図書館古本市のお手い・・・・。普段と違う時間が流れます。

(網走のはぜやコーヒー店で)

潮風

 そして、先日はサロマ湖に繰り出してのお仕事。夏休み期間は学校での仕事は雇用が解かれるので、アルバイト可能なのです。

 ホタテの稚貝を選別しカゴにつめる仕事です。
朝3時過ぎに起きて港に向かい船の上で働くのです。
右腕には五十肩と思われる痛みがあるし、体力はないし、たいした使い物にならない私ですが、いくらかでも手が欲しいということで駆り出されたのです。
 仕事初日までは何とも気が重いものの、目覚ましの音で身体を起こせば、後は観念してやるべきことに身をまかせるしかありません。
仕事はきついのですが、ご褒美ともいえるひとときもあるのです。
 静かに昇る真っ赤な太陽を見ればその一時の美しさに目を奪われます、
ゴウゴウとうなりをあげて湖を走る船の上で潮風に吹かれると、何ともいえない良い気持ちになるものです。(サロマ湖汽水湖です。塩水なのです。)
一仕事のあとの朝ご飯は甲板の上でいただきます。午後まで仕事があるときはお昼もそこでいただきます。

いざ出港!


ゆっさゆっさと揺れ動く船での仕事・・・ 「のし」という太いロープにぶら下がった、「ちょうちん」と呼ばれる資材が上げられ、そこから小さい貝をふるい落とすのです。私たちは「ほろう」というのですけどね。全身塩水にまみれ、資材に付着したモチャモチャしたゴミや小さい生物が頭にも顔にも飛んできて張り付きます。ピリピリする顔。目の中にも塩水やらゴミが入り込みます。
それでも手を休めずほろい続けるのです。集めた貝はたらいで洗い、一定の穴のあいた網を通して選別してゆきます。
この様子も写真に撮りたいのですがそんな余裕は無し!
 選別で残った貝(赤ちゃんから子どもの爪のサイズくらい)を別の資材(網で囲まれた長いカゴ)に移しかえてゆくのです。力仕事をほとんど免除されての待遇ながら、2日も続けて行ったらもう私はヘロヘロです。
 でも、私は一年に一回この仕事をすることで、何というのでしょう。労働そのものに身を投じた安心感にひたれるのです。
こういう労働の世界があることを、私は身をもって知っていたいと思うのです。

屯田たなばた祭り
 今日はお休みもらいました。
町のお祭りに出店する読み聞かせサークルのバザーのお手伝いをしてきます。
売り上げで本を買い、小学校に本を寄贈するのです。
では行ってきます。
明日はまたサロマ湖・・次のブログ たなばたに間に合わないような気がします。

長浜功氏の理念を手がかりに⑦・・・乞食の子 パート2

 
kyokoippoppo.hatenablog.com
kyokoippoppo.hatenablog.com
このブログは先に投稿したものと関連しております。お時間が許しましたらこちらと合わせてお読み下さい。

放浪をやめた一家

「この子を学校にやりなさい。」
 ある日、物乞いの先で出会った白髪の老人はそう言って、父親の手の平に十数元を乗せました。(この金額ってどれほどのものか?と思い調べてみました。当時の価値は分かりませんが、現在では一元が4円弱です)
金額こそ施し程度のものだったのでしょうが、東進にとってはこの時の老人の言葉は大変印象に残るものだったことでしょう。
老人はこの時
「勉強すれはきっと立派な人になれるよ」と言ったのです。

「勉強すれば立派な人になれる」という言葉を私はこのときはじめて聞いた」

 東進は激しく心を揺さぶられましたが、父親は何も言わずその金をポケットにしまっただけでした。
東進も何も言えませんでした。

しかし、運命の神は静かに私を助けようとしていたのだ。

 その後そういう言葉を重ねて聞いたからでしょうか?東進はとうとう学校に、通うことになったのです。
 そもそも、そういう声を聞く以前に東進を学校へ上がらせるべく行政が動かなかったか?という疑問も当然起きるわけですが、なんと、出生届けも出されていなかった東進たち兄弟は、法的にこの世に存在していなかったというのです。

家を持った一家

 東進の入学をきっかけに、この一家は放浪の生活にピリオドを打ちます。
 家を持ったのです。
叔母が世話してくれた物件は、長く放置されていた豚小屋でした。
大変粗末なものでしたが、頼一家の’’愛すべき我が家’’となったのです。
(写真は本書の末尾ページに紹介されていたもの。著者、頼東進と当時の家)
f:id:kyokoippoppo:20180804141230j:plain:w320:left

 自分が学校へ上がれるということに、天にも昇るほどの喜びを味わったのもつかの間、それと引き替えにされた代償に東進は泣き叫びます。

姉は家族の生活のために、東進が学校に通えるようにするために、父の手で女郎屋に売られてしまったのでした。




父にこのことを告げられたとき、私は雷に打たれたようにその場に立ち尽くした。何も考えることができず、頭の中か真っ白になり、全身がふるえ世界がぐるぐるまわった。

「おねえちゃんを返して、おねえちゃんを返して!・・・・・」
 これは父が決めたことだということはわかっていた。だれも父には逆らえない。しかし姉をなくして私はどうしてよいかわからなかった。この十数年間、姉は私にとっていちばん大きな心の支えであった。姉がそばにいてくれなくて、どうやって生活の苦しみを耐えていけばいいというのか。(中略)
おねえちゃん!おねえちゃん!学校なんか行かなくていいんだ、帰ってきてほしいんだ!

 このとき、姉はまだ13歳だったのです。
その後彼女に再会した東進は、姉が自分の運命を受け入れ、何より東進が学業をしっかり全うすることを望んでいることを知ります。
東進は姉の苦しみの分まで頑張ろうと誓うのでした。
そして、その頑張りたるや生易しいものではありませんでした。

学業と物乞い、そして家事

家がこんなに貧しいのに私を学校に上がらせるのはたいへんなことだった。一家が三度のご飯を食べるために、私は下校後も勉強しながら物乞いを続けた。毎晩、父とともに夜中の一時、二時まででかけ、ぐったり疲れて帰ってくると、父に何か食べさせる。三時近くになってやっと私は安心して眠ることができる。だが、早朝五時には起き出して勉強し、お風呂に入り、ご飯の支度をし、学校へ行く。これを六年間続けたのであった。

 東進の成績は常にトップでした。学級委員にもなりました。登校初日、乞食の子はここに来るなとバカにされた東進でしたが、いつの間にか数多くの表彰を受け学友の信頼と尊敬の眼差しを得るまでになるのです。

 しかし、この学校での栄誉と実生活は接点を持ちませんでした。
東進が持ち帰る表彰状の価値を認めるものは、家庭にあっては一人もおらず、一家10人の生活がのしかかるばかり。

自分の家が、一度足を踏み入れたら二度と出られない底なし沼のような、ずっしり重い地獄に思えた。

この世の苦しみを受け続け、生きている意味があるのか?
東進は苦しむのです。

自殺は何度もしようとした

しかし、自分が死んだら誰がこの家族を養うのか?
いっそ一家心中してしまえば、だれもこのつらい責任を担わなくてすむ、そのように思った東進は少しずつ金を貯め、農薬を手にいれるのです。
決行に向かうまでの、東進の苦しみ、恐怖、緊張たるや凄まじいものがありました。
土壇場で脳裏に現れたのが姉の姿でした。
姉は、みんなが生きるために犠牲になったのだと気づいた東進。死にきれなかった東進は再び過酷な現実に向き合わざるを得ないのです。
「進はいったいどうしたらいいんだ!」応えるもののだれもいない田んぼの中で東進は自分を抱きしめ号泣するのでした。
たかだか、十いくつの子どもが背負うにはあまりに重い荷物だったのです。
そんな東進の力になったのは、まっとうで優しい学校の先生たちでした。
また、東進自身の学習に対する熱意でした。

家に字の読み書きができる人がいなかったので、どのように字をきれいに書くのか教えてもらったことがなかった。また、書道に使う筆や紙を買う余裕もない。だが、きっと努力すればかならず得るものがあるだろうと信じ、運動場で長さがちょうどよさそうな木の枝を拾って筆代わりにし、砂場を無料の紙と思って地面に字を書き始めた。一定の面積を書くと、手や足で消し、またもう一度練習する。


 初めは上手くゆかず上級生の教室をこっそりのぞくのです。すると筆と鉛筆では持ち方違うことがわかる。
東進はまるで宝物を見つけたようにうれしくなるのです。
東進の宝物はこのようなものなのです。私はこれを読む何ともいえない気持ちになります。この一文に立ち止まり、背筋を伸ばし敬意を表したくなるのです。
(そう、前回のブログでは、パンチートのノートがそのような宝物でしたね。)

 東進はたゆまぬ努力を続けます。今日百字書いたら次は二百字・・・このように練習を続けたのです。そして三年生の一学期、とうとう書道コンテストに参加します。成績は堂々の一位。
 このうれしい成果の後も、彼は日々努力をし続け、彼は六年生になるまで一位を保つことがてきたのでした。

その後の彼の陸上競技での活躍や、晴れて伴侶を得るエピソードなど、ご紹介したいことはありますが、ここまでにしておきましょう。


 頼 東進氏は1999年に、台湾各界で活躍する青年10人に贈られる「十大傑出青年」に選ばれました。

   *  *  *  *  *
「長浜功氏の理念を手がかりに」と題して4つお話を紹介しました。

 どの主人公にも、苦難が付き物であり、苦学の末に幸せにたどりついたものもあれは、抹殺された最期もありました。
しかし、それぞれ学びとは何か?について考えさせられる作品だと思います。
長浜功氏の理念と重なるのか?それはわかりませんが、長浜氏の言葉に触れたとき、頭に浮かんだ作品がこれらだったのです。


一連のブログを読んで下さった方、ブログを更新する度に早速読んでくださり、スターでの励ましを送って下さった読者の方々・・・ありがとうございました。

長浜氏の理念を手がかりに⑥・・・・乞食の子パート1

 このブログは先に投稿したものと関連しております。
お時間が許しましたらこちらと合わせてお読み下さい。
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盲目のとうちゃん、知恵遅れのかあちゃん

 この本は、まさしく‘’乞食の子‘’であった台湾人、頼東進(ライ・トンジン)氏による自分史です。

 もう驚くしかない生活の様子が綴られております。東進氏は1959年生まれ、場所こそ違え私と同じ時代を生きた方だと思うと驚きもひとしおです。

 彼の父親は22歳のときに眼病がもとで失明。すでに養ってくれる家族を持たなかった彼は月琴を携え物乞いの生活を始めました。母親はそんな父親に拾われ二人は夫婦になりました。食べ物も与えられず野ざらしにされていたという知的障害をもつその女性は、まだ13歳でした。彼女の身の上を不憫に思った父親がまさしく拾い、連れて歩いたのです。

 母親の障害は重度でした。彼女は自分の下の世話もできなければ、生理の手当てもできません。自分の産んだ子どもを保護することもできず、幼児の我が子と一緒になって、泣き、わめき、食べ物をむさぼるのです。東進と姉が、母親と幼い兄弟の汚れた下着を洗い、ご飯を食べさせる役を担うしかありませんでした。

 一家は生計を立てる手立てがなく、乞食稼業で糧を得ていました。家もなく、百姓公廟(パイシンコンミャオ)に眠る日々。この百姓公廟は無縁仏を祀る祠のようなものだそうです。
参る人もなく、あれ放題の廟は、蛇、クモ、ネズミ、ゴキブリ、とかげや、ムカデの巣になっており、後ろには骸骨が山積みされているのでした。死人は生きている人のように意地悪はしないと思いながらも、東進は悪夢に苦しみ霊の気配に怯えるのでした。

 叩く父

 東進は父親の目でした。3~4歳にはもう父の手を引いて物乞いに歩きました。
父が何かにつまずかないように、頭をぶつけないように身長差まで考慮して進まなければなりません。
 失敗すると容赦なく父の杖がふりおろされます。
とにかく、父親の折檻は常軌を逸しています。
東進が成長するほど、彼がかかえる家族に対する責任は増え、失敗に対する折檻も過酷になりました。
地面に釘を撒き散らしその上に正座させられたこともありました。
両方の親指をひもで縛り上げそのまま吊るされてしまったこともありました。
「痛いよ!痛いよ!指が取れてしまう!」
泣きわめく東進。
その時は恐怖と痛みに錯乱し、失禁し、失神寸前でようやくおろしてもらえました。
あまりに酷い仕打ちです。

 極めて苦しい生活なのに、次々と子どもを作り、食いぶちを増やし、その負担を幼い東進やその姉に当たり前のように押し付ける。
腹が立てば激しい折檻をする!
我が子を虐待するひどい父親なのです。しかし、東進が父を語る言葉は、このような見たままの図式にははまりません。

彼は目こそ見えなかったが、心は明らかに開いていた。体には障害があったが、心は病んでいなかったのだ、一生、月琴と胡弓を供ににして、半生を物乞いしてすごし、あたらこちらで世直しの歌を歌って歩いた。父の頭には漢方の知識が詰まっており、放浪した先で人のために漢方の治療をしてあげた。

 東進は父親に対し腹を立てたり、恨んだりしたことはあったものの、それは一時の感情で、根本では父を尊敬し、愛していました。

永遠に不動にしてそびえ立つ大山であり、最初から最後まで仰ぎ見る存在であった

というのです。
父親は乞食でありながらも、自分の生きる姿勢で東進を教育したのでしょうか?

この父の有り様をみると、彼にとっての家族は身の内なのだと感じます。
家族は彼の目であり、手足であり、彼にとって家族がそのまま自分であるのだなと感じました。家族ひとりひとりが他者であるという感覚が極めて薄いように感じました。
この父にとって家族を律することは自分を律することと同じだったのでしょう。家族は彼の指令のもとに動くしかなかったのです。

 東進にとって、この乞食の父親が‘’尊敬に価する大山‘’であると思えたのは、もの心ついた頃からのこのような構図の中で育ち、洗脳されたからと考えることもできるでしょう。
 しかしそうとばかりも言えない、東進が父親をこのように称する訳も、うなずけるのです。それらのエピソードも紹介したいところですが、ここでは興味を持たれた方はどうぞ本を手に取って下さいというにとどめておきましょう。
一つ言えることは、この父親は乞食という稼業を続けながらも、自尊感情を常にしっかり持っていたということです。
その姿勢が、東進には尊いものであり、東進自身の生きてゆく柱になったと考えられます。

 虐待ともいえる父ちゃんの有り様から、「教育」を抽出し、自分の生き方に反映させた東進さん。
すごい生きざまです。

盲目のとうちゃんは天秤棒で赤ん坊をふたり運んでいる。
私は左手で母の鎖を持ち、右手で弟の鎖を持っている。
かあちゃんはやたらにおっぱいを露出させ、見物人に見せている。ねえさん、破れた布団を背負い、胸にむしろと月琴をゆわえつけ、ちっちゃな弟の手を引いている。
二人の裸ん坊の子どもが地面を這い、手につかんだものを片っ端から口に入れる。
同じように服をきてない大きな三人の子どもは、全身垢で真っ黒になっている。
へんなの、へんなの。ほら見てごらん。女がストリップやってるぞ・・・。

 このような、蔑みに晒された一家は、放浪生活にピリオドを打ちます。
東進が学校に入学することになったからです。
 頼東進氏は、その後乞食稼業から抜け出し、幸せな家庭を持つにいたるのですが、そこには学校教育が大きな役割を果たしました。
これは、次のブログでご紹介しましょう。

ameblo.jp

長浜功氏の理念を手がかりに⑤・・・この道のむこうに

このブログは先に投稿したものと関連しております。
お時間が許しましたら、こちらと合わせてお読み下さい。
kyokoippoppo.hatenablog.com
kyokoippoppo.hatenablog.com

パンチート

この道のむこうに (Y.A.Books)

この道のむこうに (Y.A.Books)

 今回ご紹介する本『この道のむこうに』の原題は、『The Circuit』~サーキット。
カーレースを想像するのですがさにあらず。
様々な農作物の収穫期に合わせて転々と移動を繰り返す貧しい季節労働者の生活を象徴した言葉、ミグラント・サーキットのことなのだそうです。
ミグラントは渡り鳥という意味)

 このような暮らしをしたパンチートの、少年期の物語です。
作者であるフランシスコ・ヒメネスの自伝的な作品だということです。

 パンチートの家族は、メキシコから不法移民としてアメリカにやってきました。
有刺鉄線をくぐり抜けて・・(・トランプ大統領はだから壁を!と考えるのでしょうね。)
過酷な労働に加え、不法滞在者をとりしまる、ラ・ミグラの存在にも怯えながらの暮らしでした。
収穫作業が落ち着いたときには、パンチートは学校に通うことができましたが、その期間は飛び飛びであったり、次の土地の、別の学校であったりするのです。
 そして、なにより大変だったのは、パンチートは英語がさっぱり分からなかったということです。

 スカラピーノ先生がみんなに向かって話し始めたけれど、ぼくにはひとこともわからなかった。先生がしゃべればしゃべるほど、不安になってきた。その日の授業が全部終わったときには、すっかり疲れてしまっていた。結局、スカラピーノ先生が話したことはなにひとつわからなかった。一生懸命聞けばちょっとずつでもわかるかもしれないと思ってためしたけれど、やっぱりわからなかった。その日は一日頭が痛くて、夜よこになってからも、頭の中で先生の声がひびいていた。

パンチート少年の初めての学校体験はこのようなものでした。

青いノート

 パンチートはサンタマリアのごみ捨て場で一冊のノートを見つけます。
‘’まるで新品みたいなノート‘’

ぼくはマーティン先生の英語の授業でおくれていた。先生は毎日黒板にちがう単語をひとつ書いて、クラスのみんなに、できるだけはやく辞書を引いて意味を調べるようにいった。いちばん先に調べた子が点数をもらって、週の終わりにはいちばん得点の高かった子が金色の星をもらえる。ぼくは星どころか、点数をもらったことも一度もなかった。辞書を引くのには時間がかかったし、ほとんどの単語の意味はわからなかった。
 それで、ぼくは単語をみんながいっている意味といっしよにノートに書きとめることにした。そして、それをおぼえた。その年はずっとそれを続けた。マーティン先生の授業が終わったあとも、新しい単語とその意味をノートに書きとめつづけた。学校で習うほかのことや、自分がおぼえておきたいこともノートに書くようにした。単語のつづりや、算数の計算のしかた、英語の文法なんかだ。仕事にでるときもそのノートを胸のポケットにいれていって、書きとめたいろいろなことをおぼえるようにした。そうやってそのノートをもって歩いた。

 このあたりは、フランシスコ・ヒメネス氏の実体験そのものだと感じます。
このノートはパンチートの大切なもちものだったことが伺えます。
そう、まさしくこの文章は、「もつことときざむこと」の章に記されています。
私は、この章で描かれていることを「もつことと失うこと」というイメージで捉えましたが、そうではなく「きざむこと」であること。
ああそうか。この視点が大切だったのだと改めて感じたのです。

友達 コイン 家 ノート

 新しい土地へ向かう車の中でパンチートは数少ないコインを握り、別れた友に思いを馳せます。互いにコインに興味を持ち仲良くなった友でしたが、そんな友ともいずれ別れなければならない運命なのでした。
しかし新しい土地では労働者用に、古く傷んでいるものの、「家」が用意されていました。
「ぼくらが家に住むなんて!」
大喜びの一家。
 
 ある日パンチートのわずかな宝物であったペニー硬貨が無くなってしまいます。妹が持ち出してガムマシンで使ってしまったのです。
あまりのことに、動転し顔を真っ赤にし、外に飛び出したバンチートでした。
母親が、そばに添いお金より大切な家族の存在について語ります。
怒りは簡単には消えませんでしたが、母親の言葉を受け取り落ち着いたパンチートでした。

 ある日、買ってきた石油をコンロに入れようとしたときです。
なんだかガソリンのような匂いがしたのです。しかし、父親は「安い石油なんだろう?」と言って作業を続けました。
自分の思い込みに、安易にな納得をし、コンロにそれをつぎ足したのでした。
母親が豆を煮ようとマッチをすった瞬間コンロは大きな火をふきあげました。
家族はみんな外に逃げたものの、あの大事なノートは家の中。
慌てて戻ろうとするバンチート。
父親が立ちはだかりました。
家は焼け落ちてしまいました。


「みんな、無事で助かったのよ。神様に感謝しなくちゃ」母はぼくの顔をしっかり見つめてそう言うのてした。

「わかってるよ。でもぼくのノートは焼けてなくなっちゃったんだ。ぼくのコインみたいに」
長い間をおいて母さんはいった。
「あなたはあのノートに何が書いてあったか知ってるの?」
「うん」母さんがなにをきこうとしているのか不思議に思いながら答えた。
「そうなの。もし、あなたがあのノートに書いてあることを知っているのなら、あなたはなにもなくしていないじゃない」
 母さんのことばはちゃんときこえた。でも、なにをいいたかったのかがわかったのは、二、三日がたってからだった。

母さんは正しかった。ぼくはなにもなくしていなかった。

パンチートは、ノートに書いたすべてが、心にきざまれていることを知ったのでした。


 学んだことは財産になるのです。
この財産は誰にも盗られる心配のないもの。
自分とともにあり、自分を助けてくれるもの。
この物語の最後はショッキングな出来事てしめくくられています。
 でも、訳者のあとがきにより、著者ヒメネス、つまり成長したパンチートは、アメリカのコロンビア大学で博士号を取得し、作家として、教育者として活躍していることがわかるのです。
この道のむこうに/あの空の下で - ぱせりの本の森d.hatena.ne.jp