お金持ちになった貫多💰

 西村賢太氏が『苦役列車』で芥川賞をとったのは2011年のこと。
 多くの読者の前に姿を現した作中の「北町貫多」は19歳。行く先の心細さに身悶えしながら、日雇いの港湾作業で日銭を稼いでおりました。

 と同時に彼は「後の芥川賞受賞作家」でもある人物としてお目見えしたわけでもあり、読者はそれを知りつつ苦役列車に乗る彼の日常を読むことになります。

 読みながら私は、この受賞によって得るものと共に失うものも相応にあるのではないか?と思ったものです。
 そもそも、金に困り、誰にも顧みられず、孤独で蔑まされていた貫多はもういないのです。
 賢太さんは、主人公「貫多」を失ってしまうのではないか?と思ったのです。
 貫多がその後の小説に登場するとして、はて同じ魅力的を放つだろうかと。

 しかし、過日読み終えた『芝公園六角堂跡』の中で貫多は、生活スタイルこそ変われ、受賞前と同じインパクトと魅力を備えてそこで悶々としながら生きておりました。
 その事をブログに記そうと思ったものの、資料として改めて数冊の西村氏の著作を立て続けに読んでしまい、つど思い付いたことを書き綴り、関連のタイトルも今回で三つ目。
 
 今回話題にするのは『歪んだ忌日』。
(『芝公園六角堂跡』は次でようやく書く予定。予定なんてどうでもいいか。いくらも読者がいないブログなんだから、と思いつつも...はい、そういう予定であります。)


 『歪んだ忌日』には、六編の短編が収まっており、時系列もばらばらに受賞前、受賞後の「貫多」が散りばめられています。

歪んだ忌日

歪んだ忌日

 ところで私は、文学についで語りたいわけではないのです。人々の生きざまというものに興味があるのです。

 で、受賞前と後を対比するに当たって大変分かりやすい金銭がらみのものを抜粋してみました。

 外に出ると、息のつまるような熱気が、またジワジワと貫多の体にまとわりついてくる。
 次に向かう終夜営業の「信濃屋」は目と鼻の先である。が、いよいよ一気に残金の千七百五十円を使えることに気も大きくなっていた貫多は、そこで何やらふとした気まぐれを起こした。

  『歪んだ忌日』中の短編 『跼蹐の門』より


 これは、苦役時代の貫多です。残金1750円で気を大きくする貫多がそこにいます。
しかも、それだって曰く付きお金なのです。

 親から貰った十万円の支度金を手に、一人暮らしを始めた貫多でしたが、すぐにお金は底をつきます。そんなこんなで、手持ちに困れば母親の財布を当てに家に舞い戻っては、なけなしのお金をむしりとっていた貫多。
 この時母親の財布の中には九千円しかなく、彼女はこれで次の給料日まての二週間を過ごさなければならない状況でした。さすがに全額抜くことはできず、四千円を手にした次第。たまたま日給の高いバイトをみつけたことを良いことに、冷房の効いた喫茶店で時間を過ごし、次は信濃屋へ・・・と、そのお金を贅沢に使おうとする貫多がそこにいます。

 バイト初日をどう迎えるのかは、是非読んで味わってみてください。


 何やら難しいタイトル『跼蹐』(きょくせき)ですが、調べてみましたらこれは、跼天蹐地の略で、高い天の下で体を縮め、厚い大地の上を抜き足で歩く意なのだそうてす。肩身がせまく、世間に気兼ねしながら暮らすことをいうのだそうです。


 さて、同じ本に収録されていた、『形影相弔』(これは何と読むのでしようか?)には、沒後弟子として敬愛し尊敬する大正時代の作家 藤澤清造(西村氏の記述では清の字が別のものなのですか、どうしてもこのスマホでは打てなかったので清で記述させてもらいました。)の自筆原稿をどうしても手に入れたいと算段する場面があります。
貫多受賞後の出来事てす。

その試算額たるや・・・・

 計百四十一枚を、一枚十万円で千四百十万円。
     一枚二十万円なら計二千八百二十万円

等と、絶対に誰もが手を出さない高額価格を想定し、それでもなお、手に入らない不安に駆られているのです。

 これ、受賞前にこの原稿が現れていたらどうしていたのでしょうね。
 また、受賞直後のタイミングでこのようなものがあらわれるというのも、何なんでしようね。

 滅多に出現しない稀品であるとのこと。稀品といったってこれを貴重なものと認識する人がどれだけいるのか?といったところですが。

 お前は、今手に入った財産投げうってでも、これを手に入れるのかい?と試され、挑まれているようなあんばいなのです。

 夕闇の翳さす虚室にて、幾通りもの設定金額を書いては消し、悩んでは直しを繰り返す、その貫多の胸中にはいつしか苦っぽい自嘲めいたものが這いのぼってきた。
 所詮は自分の小金持ち状態も、ほんの数箇月のことにすぎなかったか、と。
 か、その一方で、彼はかようなアブク銭を、清造絡みの事柄でこの段になっても洗いざらい吐き出すことのできる、自分の心情がうれしくもあり、また誇らしくもあった。

 その後どのような価格でこれを手に入れたのかはわかりません(もちろん手に入れたことでしょうから)。ですが、かなりの大枚を投じたことは想像できますね。

 西村賢太氏は世に知られるようになり、藤原清造の沒後弟子しての面目も果たせたわけですが、このように名が知られることによって招かざる事態も出来します。
まあ、その辺は彼の著書で。

追記
形影相弔・・・そのまま、けいえいそうちょうと読み
     ます。
誰が来ることもなく一人で寂しい様子だそうです。