賢太が貫多を演じる

 もうすっかり「貫多さん」の追っかけです。
(しかも急にさん付けだ。)

 2011年に芥川賞を受賞した西村賢太氏。
すっかりお金持ちになっちゃって、すっかり有名人になっちゃって、テレビに出演したりして・・・・

 そんなことになって「貫多」はどうなっちゃうの?などと思っておりました。

 それから早7年の月日がたった今頃に『芝公園六角堂跡』を手に取りました。(やっとたどり着いた💦)
とても良かったです。
とともに、西村賢太氏はすごいな‼️と感嘆。嘘偽りなく自分の内面を描写してゆく、それが見事。そして彼は大変に繊細な方だと思います。
小説で明かされた数々の粗暴な言動、行動とその繊細さが共にあるところが人間のおもしろさなのだと思います。

 常に揺れ動く内面の揺れに応じて 相対的な対比が次々に読み取れて、大変に面白かったです。

 ‘’根がどこまでも土方スタイルにできている貫多‘’が、普段行きつけないホテルのライブ会場に姿を現す序盤・・・・
そこにリュウとした黒スーツの従業員が現れる。
場に相応しいエレガントな物腰で案内されるも ふと「チケットは?」と問われる。
貫多がそれを所持してないと知るや彼は、いきなり顔を上にのけぞらせ、その後 貫多のそのなりに無遠慮な目を向ける。

 その剥き出しの侮蔑をきっかけに 貫多の中の高き誇りが立ち上がる。

 襤褸(らんる)を纏っていても、これはあくまでも私小説書きたる自身の、作中主人公のイメージとの兼ね合いによるものであり、一方そこには、それなりに小金があるときでも常に見すぼらしい格好をしていた、敬する私小説家たち─藤澤清造や晩年の田中英光、中年期以降の川崎長太郎の心意気に倣う意味合いも、確かとある。

    ※著作では「せいぞう」に別の文字を使っておりますが、変換不可能だったため ここでは「清」の字を使わせてもらいました。

 長らくファンであった有名ミュージシャンのライブに赴くに当たっても、彼はしっかりユニホームを着こんでき来たというわけなのです。
それはダメ人間を演ずる用のファッションなのです。傍目にどう映ろうが彼の税務所への申告額は×千×百万円になっているそうなのである。

そう容易く浮浪者を見る目で眺めて欲しくはないのである。
 更には、かような馬鹿丸出しの年収自慢を臆面もなく─そして半ば他者を見下す意味でひけらかしてみせることでも知れる通り、貫多は根の稟性(ひんせい)がかなり下劣で、ひどく卑しくできている性分でもある。

 自分の根は下劣で卑しいと言いながらも、貫多は今や演出をして「ダメ人間」を維持する身となったのです。
中学時代、母親の財布から小金を抜き取ってレコード屋に走り、そのミュージシャンのレコードを買ったという、貫多。
雲の上にいたその人のライブにも招待客として招かれる身となった貫多。

その内面の振れ幅は大きくならざるをえません。

賢太と貫多
昔と今
自虐と誇り
物語の序盤で表れた使用人と招待客・・・・

 そして招待客としての優越感が繰り広げられた場所は「旧称芝公園十七号地」にほど近い所でもありました。
貫多が心から敬愛し、まさしく人生を救ってもらった師である、藤澤清造氏と因の深い場所。
 清造はその場所で凍死し、その苦しい人生を閉じました。

 ライブの帰り道
そこに足を延ばし、佇む貫多。
芥川賞受賞によって沒後弟子として面目を果たしたと胸をなでおろすも、それをきっかけに流行のメディアにさらされることとなり、その虚飾にまきこまれていった腹立たしさ、神聖なる師匠までもそれに巻き込ませてしまった苦々しさ。
 
 優越をかみしめた華やかなライブの後で対面する芝公園六角堂跡。

とうとう陽の目を見なかった藤澤清造?一方文学者として華やかな場所に立つこととなった貫多。
貫多であるところの西村賢太

交錯する時間と場所。
読者を全く意識せず、自分のためにものした一作だという、この表題作・・・強く印象に残りました。

追記
 西村氏の文章には頻繁に・・・・・「根が~の貫多は」という表現が出てきます。根がどこまでも嫉妬深くできている彼は・・・」とか、「これでも根がスタイリストにできている貫多は・・」など、さまざまなバリエーションがあって実におもしろいのです。
すべて書き出そうかと思ったくらいで 目にとめたそばから付箋をはっておりました。あまりの多さに書き出すことはやめにして写真に撮りました。

 そして初めての写真貼り付け作業は、試行錯誤の末ようやくできました。
きゃあー!自分をほめてやりたいわ。でも、でっか過ぎるわ。どうにかできるものしら?でも今日はもう限界。


と言いつつ小さいでしょ。限界を越えてがんばったのでした。