3月11日・・・・・ (原発ジプシー)

 まずはこの文章をお読み下さい。

 三月十一日(日)
 明け方の五時ごろ、地震で目を覚ます。かなり長いあいだ揺れていた。日中は風が吹き荒れ、東北線が一時不通になった。
 一人きりの日曜日。メモの整理、洗濯。

 三月十一日・・・・誰もが知っている日付です。
しかし明け方の地震

 この文章は堀江邦夫著『原発ジプシー』からの抜粋です。堀江氏が地震を感知した場所は福島。
時は1979年です。

 当時堀江氏は、福島第一原子力発電所で働く労働者でした。いえ、実は労働者として潜入していたフリーライターでした。
 堀江氏は

 原発の〈素顔〉が霞んで見えることへのいらだちを、実際にその現場で働きながら自分自身の目と耳で確かめることで解消してみたいと考え・・・・,

 一労働者として原発の作業に従事することにきめたのです。
 現場に飛び込むことに対する不安がなかったわけではありませんでした。

 私も最初の頃は、やはり躊躇していた。放射能への不安、他の手段は考えられないかという迷い、さらには友人たちのアドバイス・・・・・。
 だか、徐々に実行へと私の気持ちは傾いていった。その理由は二つあった。
 一つは躊躇すること自体に、やりきれない「いらだち」を感じてしまったこと。
二つには、友人たちのアドバイスが逆に私の気もちを固めさせたことだった。彼らが反対していたのは「放射能に対する不安」からだ。が、現にそこではたらいているものたちがいる。労働者たちは、その「不安」なところで、どのような作業を、どのような思いで行っているのだろうか。放射能に対する不安が増せば増すほど、原発で、働く労働者たちへの関心はますます高いものになっていった。

         『原発ジプシー』前書きより


 これは、東日本大震災があった2011年に、増補改訂版として出版されたものですが、旧版は1979年。今から39年も前に世の中に出ていたのです。

 その当時、新しく!安全で!クリーンである!と宣伝されていた原子力発電所の裏側を知り、その危うさを知るに十二分な貴重なレポートだったのです。
 現場が、まるで使い捨ての駒のように使われ、過酷で危険な作業を強いられる労働者によって支えられていることに思いを向けることもできたでしょう。

 かくいう私は1979年に出版されたこの本の存在を知らないわけではありませんでした。

 でも、手に取って読むことはしませんでした。
何故って・・・・無関心を決め込んだのですよ。
知ることによって増す 気持ちの負担から逃げたのです。「知らなかった」で済ませておきたいテーマだったということです。

 堀江氏の渾身のルポは、出版当時いくらか話題になりましたし、このことに関心をよせる人々にとっては並々ならぬ価値のある一冊となりました。

 しかし、原発推進の波と、私を含むその他大勢の人の「無関心の沈黙」によってこの本の存在は薄れていったのです。
 
 1979年3月11日。
福島は長く不穏な揺れに見舞われていたのです。まるで、32年後の大きな災害を予知し警鐘をならすように。
 私はこのことを、震災後出版された増補改訂版により知りました。まるで、時流に乗るようにして手に取ったというわけなのです。

 この大災害によってこの本は、再び世に出てきたわけですが、著者の堀江氏にとっては「遅いんだ!遅すぎた!」という思いだったのではないでしょうか。

 そしてさらに7年。
早くも風化が始まっております。
 情けないことに私も例外ではありません。
日頃心に思うのは我が子の心配とお金の心配ばかり。
 再び稼働が始まっている原発の是非にも、そろそろどうにかしていかなくてはならない使用済み核燃料の最終的な処分場所の問題からも目をそらせている日常です。
 
 だって、私が考えたところでどうしようもないじゃあありませんか。ついついそう思ってしまうのです。


そんな折、一冊の漫画を図書館で見つけました。「しんさいニート

 作者カトーコーキさんが体験した震災と、ご自身の生きづらさや鬱体験を漫画で表現したものです。

 震災(特に原発事故の影響)と鬱という二本の柱で成り立っ内容です。
 何故にこんなに生きづらいのか?幸福感を得ることに罪悪感が伴うのか?を幼少期の親子関係まで遡って検証している内容に大いに興味を持ち読むことができました。
 また、震災の爪跡というのは、人それぞれに人それぞれの形で残ること。家やお金や代替の場所で無かったことに出来るようなものではないことをリアルに知ることができました。

 3月11日がやってきます。