学校は・・・・・・・・工場

 内田氏と林氏の言葉

庭のクロッカスが咲きました。
庭に色を添えた第一号

 前回のブログを書き上げるのには、時間がかかりました。
kyokoippoppo.hatenablog.com


 新年度の仕事がスタートして、時間的な制約があったことに加え、文章をどう展開し、まとめていこうか?と迷い苦労しました。
でも、その苦労はなかなか楽しい。
家の中の整理整頓はさっぱり進みませんが、頭の中の整理をしたような爽快感があります。

 本を読んでは、気分のみで反応して、それっきりになっていたものたちを、改めて引っ張り出して、眺めて印(ブログの記事)を付けて、引き出し(ネットの中の保存箱)に仕舞っていく作業。
書き終わると次は?何を?
と思い巡らせるのです。


 前回は、林竹二氏と内田樹氏に共通した「学ぶとは変わることである。」という言葉を紹介しました。
共通したといっても、そっくり同じ意味ではないようです。
林氏は、学習によって古い自分が壊され、新生するというような意味。
内田氏の場合は、文章を(『下流志向』)読む限り、初めから知っていることを学ぶ、などということはあり得ないのであって、学んだことの理解は学びの後になって(変容を終えた段階で)知るものだ。
というように語っています。

 
 多少ニュアンスが違うとはいえ、生きた時代が違うお二人の、類似する言葉に興味を覚えました。

そして、もう一つ共通点を見つけたので今回はそれを紹介しましょう。

それば、お二人とも、「学校」を「工場」に例えていることです。

内田氏は『下流志向』の中の「工場としての学校」という見出しで次のように述べています。

大学の外側では市場経済の社会が卒業生を「人材」として迎えようとして待ち構えています。入学時には、学生やその親たちが「買い手」であり、大学か教育商品の「売り手」であるという消費モデルがある。それと同じように、出口においては、卒業生は、「大学という工場」から送り出された「製品」であり、これを企業が「お買い上げ」になるというもう一つの消費モデルが存在する。
 財界や文部省は、大学は送り出す卒業生という「製品」に対して、ふつうの工場かやっているように「品質保証」をしなさいと言ってきています。ちゃんと規格品として標準的な質に達しているかどうか、質の保証をしろ、と。
 しかし、これば原理的には無理な注文なわけです。だって「教育のアウトカム」は測定不能だからてす。教育成果として測定可能なものというのは、教育成果のうちのほんとうにごく一部のことにしかすぎない。

 


以下は、『問いつづけて』で語られた林竹二氏の言葉です。これば、NHK女性手帳で5回にわたって放映されたものが活字化されたものです。なので、対談形式になっております。

ー学校教育というのは、いい製品を作って売り出す工場とは全く違う仕事なのですね。

ええ、工場と学校とでは任務が根本的にちがうと思うんです。工場はいい製品を作るのが目的地ですね。生きた製品を作るには、最もいい材料を集め、精密な設計をつくり、設計通りのプロセスで製品を作ればいい。ところが学校はそういう仕事をするところではないわけですね。学校はいろいろな能力をもった子どもたちを集めて、その子どもたちの、もっている最善なものを、それぞれの子から引き出す。そのことに対して学校と先生は責任があるわけです。ところが、そのことを大事にする傾向がどんどん乏しくなっている。

学校は、もはや空洞化どころではなくなってしまっているという感じがします。もっとひどくなってしまっている。実はこれはいまにはじまることではないのかもしれませんが、本来教育の場である学校が、まさしく人間破壊の工場になっている。(太字はkyokoによる)


これも、きれいに重なる内容ではありませんが、大事なのは、「学校」が、「工場」を連想させるという共通点です。
林氏は、製品を作るどころが、「人間破壊工場」という強い言葉で、その頃の学校のありようを批判しております。

 理想を抱えてお仕事デビュー

 前回のブログで書きましたが私はこのような氏の言葉に、19歳でふれ、強く感銘を受けました。
目についた林竹二の著作物は手に入れ、その言葉を宝物のように感じてきました。
それを携えて小学校教師として、デビューしたのです。
どうなったと思います?

・・・・・その、理想はどんどん遠くなり、自分とは無関係のものになっていったのです。

子どもが席に着かない、どうしょう。
教室が騒がしく落ち着かない、どうしよう。
子どもたち、言うこと聞かないよ。
そんな、悩みが、目の前にあって対処に追われ、
林氏の言葉は雲の上まで逃げていってしまいました。


 そもそも「小学校の先生」という仕事そのものも、何となく母が「良い仕事だねえ。」というから、
「そうかもねえ。」という成り行きで決めたものです。
現場に入れば、やらなければならない課題、内容は決められているのです。それをこなすのに精一杯で、子どもが授業によって浄化され変容するような授業など、意識する隙間も、ありませんでした。

 この三年間で仕事の大変さ、ままならなさ痛感しました。でもこの経験は貴重です。
これがなければ、私は外側から、気楽に、高飛車に学校批判を続け、それを言う快感に浸っていたことでしょう。


 時は流れ、結婚し、子育てにいそしむようになっても、雲の上にある林竹二の言葉は、私の中で生きていました。
その頃鳥山敏子にも傾倒し初め、
「学校は必ずしも子どもにとって健康的で、良い場所とはいえない」。というとらえ方は強まっていったのでした。
http://www.tokyokenji-steiner.jp/about/sousetsusya/

 もちろん我が子たちに向かって「学校に行かなくて良い」などとは言わないし、先生批判もしませんでしたよ。
矛盾するようですが、子どもが元気に何の苦痛もなく学校に通ってくれることに、いつも安堵しておりました。
でも、どこかで、「この子たちを、’’学校という工場’’の製品にはしたくない。」という思いがあったと思います。
「いいよ、点数なんて」「いいよ、ただ数書かせて覚えさせる漢字なんて。」そんな思いが浸みだしていたのです。
地方の、決して教育水準が高くない、中学受験なんて、選択肢に昇ってこない環境で、「いいよ」「いいよ」とやっていたわけてすから、
うちの子たち、まんまと「良い規格品」にならずに済みましたよ。

で?その子たちはこの世の中でどう生きるの?
ということです。
規格品としての基準を満たさない子どもは、大人になってどこに所属し、どのように生きるためのお金を得るのか?ということです。
もちろん規格品にならなかった人がすべて同じところに行き着くわけではないし、逆に良い学校というレールに乗った人たちも同じでしょう。
 ただ、我が家においては今でも悩ましい現実です。(このあたりの具体的なことを書かないのはどうなのか?とは思うのですが、成人を過ぎた子どもたちのことをどこまであけすけに綴って良いのかがわかりません。いずれ、承諾をもらった上で書くときがあるかもしれません。)

 本日、雨まじりの雪。せっかく咲いたクロッカスは花弁を閉じてうなだれています。