「島小」というメッカ

千葉保先生

 私に「斎藤喜博」を教えてくれたのは、教育実習の担当教諭、千葉保先生です。

 私が学んだ鎌倉市の短大は,実習先を学生にしっかりと割り振ってくれました。
私の実習先は、鎌倉市立腰越小学校。
湘南の海を望む場所にあり、毎日江ノ島電鉄、通称江ノ電に乗ってその場所に、通いました。f:id:kyokoippoppo:20180527155955j:plain:w300

 千葉保先生は大変ユニークな先生でした。児童の信頼を得ており、好かれてもおりました。
千葉先生は「斎藤喜博」の本や、合唱のレコードを貸して下さいました。
「ほろほろとー~🎵」なんて大好きになりました。
そのように志の確固とした、素晴らしい先生の元で私は教育実習を楽しみました。
今から40年も前のことです。

 さて、ご存知のかたもいらっしゃるかもしれません。千葉先生は後に、社会の仕組みを子どもたちに伝える本を数冊出していらっしゃいます。
http://www.tarojiro.co.jp/author/3840/

 こんな素晴らしい先生にお世話になったのに、私が先生として働いた期間は、わずか3年間でした。
当たり前の話ですが、仕事はなかなか難しかった。
若さと未熟さだけが持ち合わせのすべてという当時の私・・・・気力体力を駆使するも、ままならなさに翻弄された3年間でした。
 それでも、その仕事を続ければ、私はそれなりに「先生としての自分」を作っていくことができたのかもしれません。しかし私は、結婚して北海道へ行くことを決めており、悪戦苦闘した現場からさっと身を引いてしまったのです。

島小の教育

 寄り道をしながらも、戦後の教育史をたどっています。詳しい知識があるわけではないので、
フォト・ルポルタージュ
『子どもやがて悲しき50年』
を参考にしております。



かつては群馬の辺境、利根川に南北に分断され、渡し船で往来する北の本校(児童数235名)、南の分校(129名)に分かれた小規模校に、1952年4月、斎藤喜博さんが初めて校長として赴任する。それから11年間、‘’戦後民主教育のメッカ‘’といわれる学校づくりが開始される。作家・大江健三郎さんは「そこにいる小学生たちの本当の新しさには、ほとんど圧倒される思いだった。」(『未来につながる教室』)と書いている。

ルポの編者である村上義雄氏はこのように書き、
島小学校(島小)の写真に7ページを費やしています。
最後の見開きページを見ると、まさしく‘’メッカ‘‘
と感じずにはいられません。f:id:kyokoippoppo:20180527194051j:plain:w320:right
(貼り付けた写真は、見開きの片側のみ。)



 斎藤喜博氏の実践について語られた良い記事を見つけましたので、どのような教育だっのか?はこちらをご覧ください。


<<教育問題の解決方法を考える>>


http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/198320/173207/84745325

 斎藤のいう教育の創造的な仕事は、つねに目の前にある事実と対決しながら、事実のなかから、つぎつぎと新しいものをつくりだしていくことである。つくり出されたとき、子どもは明るく美しくなり、しなやかで清潔な姿になるのである。授業のなかで、瞬間瞬間に美しいものをつくり出せないとき、暗くなったり、閉ざされたものになる。

一部抜き書いた上記の文は、林竹二の言葉とも重なっていると感じます。

どの子にも無限の可能性があること、
深く学ぶと子どもは集中し、美しくなること。

  *  *  *  *  *  *

学校での勉強に苦労した我が子が、斎藤せんせいや、林せんせいや、千葉せんせいと一緒に学んだとしたら、どんなだったかなあ。
なにより私も受けてみたかったなあ。


 追記・・・ご紹介した千葉保先生の本
www.tarojiro.co.jp
「太郎次郎社エディタス」から出版されています。
また、今私が記事を書くにあたって活用しているフォト・ルポルタージュも「太郎次郎社」の出版です。
「太郎次郎社(エディタス)」は私にとって大切な本を、世に出して下さった貴重な出版社なのです。