林竹二は何を伝えたかったのか

匍い、立ち、歩んだ先に・・・

「匍えば立て、立てば歩めの親心」
という句がある。親心をよんだのとしては、これでいいのだろうが、嬰児の成長の事実の中には単なる親心よりもはるかに底の深い真実かある。まだ、匍うことのできない子も、抱いて二本の脚で立たせると人に助けられていても、立つ姿勢になったことにかぎりないよろこびをあらわす。そのうち片脚を踏み出すような仕草さえする。嬰児自身のうちに、子ども自身のうちに、人間になるために学ぶ階程を、一足ずつのぼろうとつとめるつよい衝動がある。それが満足されたときに内面から湧いてくる喜びは深い。この内的衝動と内部から湧くよろこびがなければ、匍えば立ち、立てば歩むという人間になるための階程を一段ずつ上ってゆく学習は、どんなに外から強いられても成功の望みはないだろう。
その学校教育の不幸の根は深い。学校教育は子どもの存在の中に深く根ざしている学ぶことへの希求にこたえるものとして、その教育を組み立てていないのである。私は私の授業経験を通して、学校教育にはもっと別の可能性があるのではないかと考えている。
 子供たちはまだ人生に根をおろしていない。この子供たちに、もっと深く根をおろさせ、根を広げさせる努力が、教育の根本なのに、それをしないで、やたらに枝葉をしげらせる教育になってしまった。
これが幼い子供が自らの命を絶つ事件の頻発に無関係ではないのだろうか。

『対談 教えることと学ぶこと』林竹二・灰谷健次郎小学館

育ちゆく嬰児や幼児の、匍い 立ち、歩く営みは「人が‘’人間‘’として育つための学習」であり、そこには根元的な喜びが伴うと林氏は述べています。
それは、きっと多くの方がイメージできることでしょう。共感もできることでしょう。

 名前を呼ばれ「はーい」と手を挙げれば親は喜び、子どももそれに反応し、幾度も「はーい」をやって見せたりする。
親の言葉を真似て覚え、やりとりができるようになってゆく、そこにも幼児の喜びが確かにあることでしょう。
これも、子どもが‘’人間‘’として育つための学習です。

 しかし、学校にあがり教科としての学習が進む頃には,多くの子どもにとって「学習」は喜びと結びつかなくなってしまいます。
苦行のようになってしまう子さえいることでょう。
私自身、教科としての学習から‘’子どもの喜び‘’をイメージすることは難しい。
ですから、子どもが匍い、立ち、歩むという「学習」と、学校における「学習」は別物と考えてしまいがちです。

 しかし林竹二の言葉では、二つはつながっているものであり、同じ「学習」ととらえていることがわかります。
また、そうでなければならないと考えておられることもわかります。

なのにここが分断されているのは何故なのでしょう。
学校が介入し、指導要領にのっとって教えることでこのような現象が起こるのでしようか?
教科の学習は子どもの身体的な成長のように、生理的な喜びに結びつかないのは当たり前で仕方ないことのでしょうか?
そもそも子どもが、学ぶことに飢えていないのに食わせようとするからでしょうか?


 林竹二はふらりと教室に入り、この分断を解消しました、
授業の中で、子どもたちは見事に集中し、ひとりひとりが問題と格闘しました。
これは普段の成績や、学力とは関係なく皆がこのような学習をしたのです。
その表情は日常的な自分を乗り越えようとして真剣であり、上り詰めたところでは喜びにあふれ、浄化されたような美しい表情が現れました。
kyokoippoppo.hatenablog.com

 林竹二が提示した教材は、一般的な、教科書にあるようなものではありません。
林氏自身が研究を重ねてきた手応えのあるテーマです。
先生たちに与えられる、‘’教えるべき内容‘’とは別の自由な教材でした。
しかし、その違いだけで、このような出来事が出現するわけではないでしょう。

 授業は、数枚の写真が提示されて進められもしましたが、取り立てて珍しいものを見せたわけではありません。

児童や生徒とのやり取りに特別なテクニックが使われたわけでもないのです。
ゲーム性を取り入れて、子どもを乗せようとしたわけでもない。(むしろそのようなものは排除されるべきものなのです。)

林氏は、徹底的に子どもを信じて添い、ドマドマと戸惑うような場面に周りを巻き込み、全ての子どもを問いのただ中に立たせました。

それで前述のような授業が成り立ったことを説明しようとすれば、林氏の差し出したものに、子どもたちが応えたということに尽きるのではないでしょうか?
子どもが学習に対して開き、もともと備えていた学びたい欲求を開かせた。
そのような能力をどの子も持っているという事実を林竹二は見せたのです。
林氏が授業を公開し見せたのは、自分の力量や自分の技を見せたかったからではありません。
ここにある子どもの姿と可能性を、何としても伝えたかったのです。

枝葉と根っこ

 我が家に授かった三人の子どもたちもきっと’’そういう存在’’だったことでしょう。
その子どもたちを、私は一生懸命育てました。
健やかに育ちますように、幸せになりますようにと。

子供たちはまだ人生に根をおろしていない。この子供たちに、もっと深く根をおろさせ、根を広げさせる努力が、教育の根本なのに、それをしないで、やたらに枝葉をしげらせる教育になってしまった。

 枝葉をしげらせるというのは、暗記させ、テストで吐きださせ、ありあわせの知識で体よく答え、そのやりとりで子どもを評価する有り様といえましょう。
林竹二はそれを否定しました。

 前回のブログて、私は子どもの目に見える点数や成績にこだわらないことで、林竹二の理念に近づこうとしたことを書きました。
目にみえる枝葉をむやみにしげらそうとはしなかったのです。

しかし!
それだけではその理念に近づいたとはいえないのです。
根を張らすことも、共にしていかなければ。
それをしなければ、枝葉もしげらず根も伸びずということになる。
で?私は何をしたのでしようか?そのように自分に問いかけますと、何とも言葉に詰まるのです。
言葉につまったところで今回はおしまい。
ああ、自分を語らずじまいのブログになってしまいました。