娘の引越しによせて・・・振り出しにもどる

涙のお正月

  5年前・・・2014年のお正月、娘は身体を丸め涙を流しておりました。
恋人と別れたというのです。
その恋人の車で送ってもらい帰省したにも関わらず、もう二人の関係は終わっているというのです。
「どうしよう。」
どうしようって、同棲している相手に捨てられたのなら、もう帰る場所は無いでしょ。
ここ(故郷)で暮らすしかないよ。

「それだけは嫌だ。」
嫌だったって、家賃のいらないここ(我が家)で暮らし、いくらかでも蓄えてから出直したっていいじゃない。
「ここだけはイヤだ。」
だってあんた、どこで暮らすの?
「今すぐは、家 出されない。」
だってでも、いずれは・・・・。
何とも、不毛な会話。
困った娘だと思われることでしょう。
それに右往左往する頼りない親だと思われることでしよう。

でも、事実こんな会話だったと記憶しております。
この子仕事は?
と尋ねたいことでしょう。
彼女、職場はありました。
札幌駅ビル内のアパレルショップで働いておりました。

これまでも、職場を転々としてきましたが、アルバイトであったり、派遣業でありで、いつも生活はギリギリでした。
たどり着いたアパレルの仕事で、ようやく落ち着くかと思いきや、体調が不安定で思うように働けず、札幌での暮らしは、ギリギリの自転車操業すらおぼつかなくなっておりました。

 札幌での暮らしが成り立たないことを明かしたところ恋人は、同棲することを提案したそうです。
しかし、当初はそれに同意することに抵抗があったようで迷っていたところ、それならと、ある激安物件を紹介されたのでした。
この家賃(5000円!!)ならしのげるのではないか?という激安物件。
その方は不動産がらみの仕事もしており、手配してくれたのです。
ここで暮らせば札幌暮らしを捨てなくて済むと思った娘は、それに同意し、地下鉄駅前の気に入っていたアパートから、かの物件に移り住んだのでした。

廃墟

 2013年夏の盛りの頃の引っ越しでした。
それは、下は商業施設、上は住居だったと思われる場所で、下はシャッターが降りてとっくに空きスペースとなっておりました。
奥を覗けば、崩れかかったような廃墟に続いていました。
横の階段をあがったところに、ひと部屋がありました。
ドアの上には何故かステンドグラスがはめられ、中に入ると黒いpタイルのような床。
うーん、ここは元スナックだったんじゃない?と思われるような一部屋でした。
冬の寒さは大変なものだろうと思いました。
一応風呂は付いておりました。
・・・・が、この風呂・・・・床下は二階へ昇る階段であり、つまり空間に突き出た一角だったのです。
そのまま落下しそうな不安定を感じました。(貼った絵でイメージできますでしょうか?)

網戸は外れ、風にたなびいており、仕方なくガムテープで窓枠に張り付けました。
引っ越しを終え、地下鉄の改札で別れる際の、娘の心細い表情が心に刺さりました。
娘はそうまでして、故郷に帰ることを拒みました。

やはりそうなったか

 秋が来て冬が始まりました。
相変わらず婦人科系のトラブルが続き、その上、親知らずが痛み出し、とうとう抜歯することとなりました。
手術後、人相が変わるほど腫れ上がった顔。
物も食べられなくなり、娘はとうとう恋人の家に転がりこんだのでした。
娘の札幌での生活は撤退に継ぐ撤退という状況でした。
その頃は、個性的、魅力的な恋人の存在だけが彼女の彩りだったのではないでしょうか?
その恋人との別れがきたとなると、いったいどうなるのか?
「すぐに家を出される訳じゃない。」
・・・・娘はそう言い、実際帰省後再び札幌に戻る彼の車に乗って、娘は去っていったのでした。
その時も、私は
「ああ、この子どうなっていくんだ。」
という思いで、遠ざかる車に手を振ったのでした。

自活は無理!

 その後
「私婚活する。」
娘はそう宣言し、今の旦那さんと知り合いました。
「私わかったわ!!私に自活は難しいわ。」
娘は、その自覚と宣言によって、自分を建て直し、次なる道へと進んでゆく元気を得たようでした。
結婚を逃げ場所にしたということです。
kyokoippoppo.hatenablog.com

そもそもこの娘、高校時代は↑
「勝手に産んでおいて”努力”を強いるなんておかしくないか?」
と私に問いかけたこともあり、努力というものに対し、前向きな姿勢を取らない傾向がありました。
もちろん、投げやりのみで生活していたわけてはありません。
性根は明るく前向きな子なのです。
ただ、努力のワードを押し付けると、それを受け取りたくない姿勢が鮮明になる傾向がありました。
「自由ネコさん」のこの記事・・・そう!こんな感じなのです。
私の持ち合わせでは伝え切れないので、貼り付けて補ってもらうことにしました。
gattolibero.hatenablog.com

婚活の道は、すぐに開けました。
結婚前提であることを双方確認の上でお付き合いを始めました。

その人の転勤を機に、一緒にその土地に移り住むため、元恋人の家を出たのです。
この別れは、土壇場になって双方に相応の痛みを与えるものとなりましたが、娘は先を急ぎました。

 互いの親への挨拶をし、結婚を前提とした同棲であることを伝えた上で新しい生活が始まったのです。


その土地こそが滝川です。
婦人科系のトラブルが多く、妊娠のリスクは大きいと伝えられていましたが、すぐに妊娠しました。
「自分に子育てができるだろうか?」
その不安につきまとわれていた娘でしたが、出産後は「母親」そのものになりました。
ままならない子育てに向かいながら、今までの人生で一番努力している!!と自負するのでした。
そんなこんなの三年余・・・だんなさんは次の転勤のタイミングを迎えました。


 それを機に、娘はあれほど暮らすことを拒んだ故郷にもどってきたのでした。
二人は別れたわけではなく、旦那さんは単身赴任するのです。
だんなさんとの距離を確保した上で、娘は我が子と二人で暮らします。
経済的な協力体制については、夫婦できちんと話し合い決めたようです。
もちろん娘も働き、一定の収入を得なければ成り立ちません。
”ここだけは嫌”だった場所に越してきて、「がんばろう!」「がんばろう!」を連発し、自分に喝を入れる娘。
結局振り出しに戻ったようですが、この場所は5年前とは違う場所であり、そこに立つ娘も5年前の娘とは違うのです。

これを書きながら、「しょうもないなあ」と思うことしばしばでした。
これは娘のことばかりでなく、自分自身がね。
でもね、ここに書いたらもう、過去はのぞかないようにします。
次なる道、未知なる道を歩いていくのです。