『グスベリ』
(手持ちのものを写真に撮りました。)
石森延男によって書かれたこの本が好きでした。
(昭和52年発行・1977年・と書いて気づく・・私19才の年ではないか?と・・でも私は高校時代にこの作品を読み、読書感想文まで書いています。
おそらく当時読んでいたのは1970年に角川書店から出版された文庫本だったのでしょう。
装丁に見覚えもありますし・・・)
この作品を、高校生の頃に繰り返し読みました。
教員として勤めたわずかの期間にも、この本は常にそばにあり、折々に子どもたちに読んでやったものです。
石森氏の幼少期の体験が綴られており、当時神奈川で暮らしていた私は遠い異国のような”北国”の暮らしに思いを馳せていたのです。
そんな私は、今やその「北国」に生活の拠点を持ち、根を張っております。
まずは、この本の表題になっている『グスベリ』の章から抜き出した次の文をお読み下さい。
(グスベリは)グースベリー(gooseberry)といわれていたのが、なまってグスベリとなったものでしょう。
また、このグスベリと同じような植物で、カーレンツ(currant)というものもありました。これはとげなどなくて、実はこれも小さな、小さなブドウのように房になり、枝にむらがって、ぶらさがります。はじめは、緑色になっていますが、だんだんうれるとまっ赤になって、つやつや光り、きれいなので枝ごと折ってかざったりしました。食べてみるとさほどすっぱくはなく、といってあまいほどではありませんが、ぷーんとしゃれたにおいがして、いかにも外国からきたものという気がします。あまり小さな実なので、手のひらに、たくさんもいでおいて、それを、いっぺんに口の中にほうりこんで、たべたものです。
( )はkyokoによる
お話は、ここからまだ熟さぬグスベリを、子どもたちがいかに工夫して食べたかにうつってゆきます。
さて、我が庭に、植えたわけでもないのにいつの間にか芽吹き、育ったカレンツがあります。
実は酸っぱいと感じます。
甘いお菓子や、果物にふれる機会が少なかった石森少年たちはこれを、手のひらいっぱいにため込んで口に入れたということですが、私はそんなことはできません。
ハーブティー
で、唐突ですが今朝の話になります。
前日、娘にせきたてられるようにして作ったハーブティーでしたが、ポットに入れず残った葉が、無造作に台所の出窓においてありました。
kyokoippoppo.hatenablog.com
捨てることもなかろうと、それをポットに入れ、今沸かしあげ、麦茶のティーパックを放りこんだばかりのお湯を注ぎました。
私は、冷水用の麦茶もお湯を沸かして作ります。
今ならまだ、麦茶成分もそんなに溶け出していないだろうということで、”別のお湯を用意することを省くための不精な行為”としてそれを利用したのです。
美味しくいただけました。
葉の配分や量、葉の乾き具合が昨日と違うことに加え、ほんのり麦茶の香りが入ったからでしょうか?
昨日は「別にわざわざ飲まなくてもいいな。」
という感想だったものが、
「おお!美味しいかも!!」
に変わったのでした。
庭に繁茂させては、刈り取るばかりだった我が家のハーブを、
気ままに摘んで、
気ままに放置(乾燥)し、
毎朝沸かすお湯を注ぎ、
作っておいて気ままに飲む。
これだ!!と思いました。
冷めた方が飲みやすいからです。
まさしく娘が昨日口にした
「作りおいて白湯がわりに飲む」流儀です。
うふふ・・・そう決めたら、なんだか気分が高揚してきて
その高揚感が、
「よし!!カレンツも!!」
の流れをうんだのです。
庭に出てハーブとカレンツを折ってきました。
カレンツはほんのちょっぴり。
でもいいのです。
だって一粒一粒種を抜きたいのですもの。
大量にあったら大変だ。
小さい鍋の底にちょっぴりできあがったカレンツジャムです。
ヨーグルトに合いそうね。
七夕近し
旧暦の時期に合わせたこの地域の七夕が近づいています。
台風の影響を受けてどうも雨になりそうです。
昨年の今ごろ、同じ『グスベリ』の中から、「たなばたかざり」を題材に、記事を書いております。
貼付させて下さいね。
kyokoippoppo.hatenablog.com
「ろうそく出せ」とねり歩く、北海道のたなばた祭りの様子が描かれています。
と共に、家庭にあってきょうだいが肌を寄せ合い、遊び、ケンカする・・・そんな温かい交流も描かれています。
しかし、そんな一家の蜜月は長くは続きませんでした。
姉妹編ともいえる、『桐の花』の「明笛」の章からの抜粋です。
一家のものがそろって、ひとつ歌曲に声をあわせて、思うぞんぶん歌ったという思い出は、あとにもさきにも、これしかない。
というのは、それからまもなく、母が心臓をいためて入院し、翌年の正月にこの世を去った。同じ年に、上の姉が母のあとをおうようにしてなくなった。五年たって父が、また六年後には、二人の弟が、これもいいあわせたようにして昇天していったからである。
ひとりぼっちになったぼくは、半世紀もいきのびてきた。
母親父親を亡くした部分を読むと、涙がこぼれます。
当時は病によって、いとも簡単に人々が亡くなっていったのでしょうね。
引用した文の中に”上の姉”とありますが、では”下の姉”は?・・・それは『たなばたかざり』の章の最後で語られております。
飾り終わった柳の木を豊平川に流しにいく場面が続くのですが、そこで延男君と弟は、しっかり流れるようにと、川の深みへと向かいます。
悪いことに、雨後の増水がそのタイミングで襲ってきたのです。
川水は延男のももにまで達し、幼い弟は胸まで水につかってしまいました。
私はおそろしさのために胸の奥が痛くなってきました。
「かあちゃん。」
弟はこうさけんだかと思うと、大声でわあわあ泣き立てました。私は弟をぐっと抱きしめたはいいが、こっちもいっしょに泣きたいほどせつなくなりました。
川水の流れをみていると、目がまわり、くらくらしてきて、あたりがうす暗くなってきます。と思うと急に川のおとがしなくなり、みょうに静かになりました。
川岸で待っていたお姉ちゃんが,通りすがりの人に助けを求め、”とあみを持ったおじさん”が、果敢にも川に進み入り、意識を失いかけた二人を助けてくれたのでした。
そのおじさんですら足をとられそうなほどの増水だったのです。
そうやって二人は九死に一生を得たのでした。
母親に頼まれ、しぶしぶながら共をしてくれた下の姉ちゃんがいなければ幼い二人は川に飲み込まれていたことでしょう。
姉は広島にすんでいましたが、原爆で病気になって亡くなり、弟は高等商船学校を卒業する年にこれも病死しました。「たなばたかざり」の思いで文を書いて、とあみのおじさんに、「ありがとう」がいいたいのです。
そう・・・私はカレンツをかわきりにここに辿りつきたかったのです。
今日は原爆の日・・・74年前の今日、広島へ原爆が投下されました。
幼い日の、家族きょうだいとの思い出、会話やふれあいが濃密に描かれた作品に触れ、すっかりその家族と馴染んだような気分になったものの、
その人たちが、幼い我が子残して亡くなることや、若くして亡くなることや、戦争の犠牲として亡くなることを読み、しみじみとした思いが湧くのです。
延男氏の胸中のさみしさを思うのです。
その石森氏もとっくに亡き人です。(1987年・没)