『子どもの本のもつ力』を出発点にして①・・「かわいい」をめぐって

世界と出会える60冊

 『子どもの本のもつ力』(清水真砂子著)
という本を図書館にリクエストして、読みました。
北海道新聞の書籍紹介で知った一冊でした。

子どもの本のもつ力:世界と出会える60冊

子どもの本のもつ力:世界と出会える60冊

  • 作者:清水 真砂子
  • 発売日: 2019/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 書物を紹介する本はたくさん出版されておりますが、とりわけ清水真砂子氏が(こういうとき~氏と書くのがふさわしいのか?敬称を省いて良いのかちょっと迷います。)選ぶ”子どもに贈りたい本60冊”は何なのか?
どのような視点で、どのような言葉で紹介してあるものか?興味を持ちました。


今回より数回に分けて、この本に関わることや、
ここから派生して感じたことなどを書いてゆくつもりです。

ゲド戦記

 清水真砂子氏は、ル.グヴィンによって書かれた『ゲド戦記シリーズ』の訳者でもあります。
そして私は『ゲド戦記』が大好きなのです。
ストーリーもさることながら、訳された言葉がとても魅力的で、私は読みながら「言葉」をしみじみと味わいます。
下記は、昨年「読書の秋」のお題で書いた記事です。今回の記事に直接関わる内容ではりませんが、自身のお気に入り記事でもあるので貼り付けておきました。
(お時間がありましたら覗いてみて下さいませ。)
kyokoippoppo.hatenablog.com


 ここで原作をご存知ない方のためにお断りしておきたいのですが、
宮崎吾郎氏監督の『ゲド戦記』が2006年に映画化されておりますが、原作とは大きく違います。
私は、別物を通り越して反転したものとさえ感じます。
(原作を借りつつも、『シュナの旅』という原案がモチーフになっているとのこと・・。
それなら『ゲド戦記』のタイトルをつけないで欲しかった!!)

 この映画は実際に不評でしたので、今さらここに私のダメ出しをねちっこく書くのは憚れるのですが、でも、ちょっとこれに関しては言いたい!発したい!!と思っております。
後程ちろりと触れましょう。

「かわいい」に対する清水真砂子氏の見解

 さて、『子どもの本のもつ力』は、期待通りの本でした。
60冊のうち、私の知っているものはわずかでした。
そして、清水真砂子氏の語る文に触れると、どの本も読みたくなってしまいます。
「ああ!片っ端から図書館に問い合わせ、無い本はリクエストしよう!」とワクワクしました。

凄い磁力です。
でもでもでも、
「かわいい」がとりこぼすものは?という最初の章の数ヶ所で目にした清水氏の論には、頷きつつも素通りできないような気持ちになったのです。
ここから先を語るのはとても難しい!!
ゆっくり落ち着いて書き進めましょう。

清水真砂子氏は、対象物を「かわいい」と評することは傲慢なことだと述べておられます。

私たちは、自分の支配下に置けるものに対してはかわいいと言いますが、こちらの支配に抗う者、その支配の網を破ろうとするものに対しては、決してこの言葉を使いません。畏敬の念を抱かないではいられない対象に向かっては、いうまてもなく。

なるほど、そうかもしれません。
しかし、続く

「かわいいものに取り囲まれて暮らしたい。」
という言葉もよく聞きますが、私はこの言葉を聞くたびに、そこに「支配」のにおいをかぎとらずにはいられません。

を読むと、ちょっとついていけなくなる私がいます。

かわいい顔
かわいい花
かわいい服
孫の仕草がかわいい!声がかわいい!
などなど・・・
日常会話の中でも、このブログの中でも、
かわいい」という形容詞は度々使われてきました。
清水真砂子氏は、私が使ってきた「かわいい」にも、支配の匂いを感じ取るのでしょうか?
もちろん、清水真砂子氏は
「かわいい」の全てがそれだ!
とは言っておりませんが、私たちが何気なく発する「かわいい」に、彼女はかなりと敏感であることはまちがいありません。

そうなると私は少々しんどい。 
先月7月に行われた図書館の古本市で、私は
『ひとまねこざる』
の大型本を見つけ、孫のために手に入れました。
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ここにいる、おさるのじょーじを見て私は
心の底から
「かわいい!」
と声をあげました。


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家にあったパズルの1ピースを食べてしまったじょーじは、お腹が痛くなって病院に連れていかれます。


このページを見ると、私は相好を崩すとでもいうのでしょうか?
「かわいい。」
が言葉になって自然と唇から発せられるのです。




この「かわいい」を禁じて、別の言葉に言い換えれば
「ああ!いとおしい!」
かもしれません。
でも、私の気持ちがストレートに発するのは
「かわいい!かわいすぎる!」
なのです。
で、で、で、
この『ひとまねござる』と似ているのが、『おさるのジョージ』。
二つの関連を知りたく検索にかけてみましたら、良い記事が見つかりました。

blog.goo.ne.jp
一部分をコピーしました。

『ひとまねこざる』と『おさるのジョージ』でシリーズが違います。
原作は、M&H.A.レイ夫妻ですが、『おさるのジョージ』シリーズは、
おなじみのキャラクターをもとに,制作集団ヴァイパー・インタラクティヴの
コンピュータ・グラフィックスにより現代っ子ジョージを創り出したのが『おさるのジョージ』です。
主人公の『じょーじ』と『ジョージ』で表記が違います。

『ひとまねこざる』は、M&H・A.レイ夫妻によって書かれており、こちらが大元の作品だとのこと。
ご夫婦の死後、このキャラクターを原作にして生み出されたのが『おさるのジョージ』なのです。

二つのキャラクター・・形こそ似ておりますが、受け取る私には何かが大きく違っております。
手書きか、コンピューターグラフィックか?という手法の違いからくるものだけとは思えません。
感じられる温度・・とでもいうのでしょうか?
伝えたいものそのものの相違なのでしょうか?
後者の方はもう、”商品”であるという匂いが強すぎます。


清水真砂子氏は先程の文章に続いて、くまのプーについてふれております。

A.Aミルンの『くまのプーさん』の、あのくまのモデルになったぬいぐるみのくまを実際に目にした人は、読者の方々の中にもおられるかもしれません。もう20年以上も前のことになるでしょうか。(中略)
そしてはっとしたのは、実にそっけない、つんとしたと言いたいほどの、プーくまの表情でした。日本のぬいぐるみとはその表情を全く異にしていたのです。ああ、これだからこのくまは、クリストファ・ロビンとあんなに対等に向かい合えるんだ、と私は深く納得したことでした。愛玩動物でなど、決してなかったのです。

氏は、ディズニーキャラクターの『くまのプーさん』をことさらに挙げて対比はしておられませんが、「かわいい!」でくくり、そこに留まることへの嫌悪は十分に伝わってきます。
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 私自身は先ほど書いたように、「かわいい」という形容詞に対して、清水真砂子さんが嗅ぎわけるような「支配の匂い」には敏感ではありません。
ですから私は、自分にとってフィットする形容詞が「かわいい」なら、それを心おきなく使っていこうと思います。
ただ、私の中で何をかわいいの思うかの線引きは大切にしようと思います。

そして映画『ゲド戦記』について

 私がこの映画に対し、怒りに近い程の嫌悪を抱いた理由は、とにもかくにも少女テルーの顔に納得がいかなかったからです。
あっ。実は私この映画を見てはおりません。
しかしながら徳間書店からでたこの本を見て、びっくりしたのです。
「なんじゃこりゃあ!」


 映画は原作を借りて、別の原案の元に作らているということですし、そういう作られ方は許容されているのですから、もうこれは私の感情でしかありません。
そのように理解して受け取って下さいませ。

それにしてもこの映画、タイトルは『ゲド戦記』で、
少女の名前は、「テルー」で、
顔に火傷をおった過去まで原作からいただいている。
それでこの顔だ!!

テルーの顔は醜くなくてはダメなのです。
道ゆく人が「化け物か?」
と振り向くほどに。

ドアのかげにひそんでいたのはー子ども。
だが、顔は半分つぶれ、手も鉤爪のようになった、おそろしく無残な子どもの姿だった。

しかし、映画に現れたテルーの顔は
どこに火傷の跡がある?という感じ。
誰がこの子の顔をかわいくしてしまったのでしょうね。


これは、負わされた傷
やられた傷
なのです。
これを目立たなく、分からない程度にしてしまい、原作にはない恋物語にするに、差し障りの無い程度の傷にしてしまう・・・・これはテルーの負ったもの、痛ましい被害そのものを消し去ることになりはしないでしょうか?

「この子はテルーでない!!」
「これは『ゲド戦記』ではない!!」
私はこう叫びたくなるのです。

 小学校の図書室の書庫にも置かれているこの本・・・・。
男の子が、竜の絵にひかれてこの本を読んでいたりするのを見かければ、
「いつか、絶対原作を読んでみて。」
と声をかけてみたくなるのです。