「命」や「死」について・・・①

人魚の眠る家

 東野圭吾の『人魚の眠る家
を読みました。

大変に重いテーマながら、興味深いストーリー展開でぐいぐい引っ張られてゆくので、”面白い読み物”として読むことができました。

「面白かった」で留めておくのが、私には程良いのかもしれません。
そう思いつつ、これについてしっかりと書いてみようとしております。
関連付けて考えられそうな新聞の記事が目に入ったり、整理しようと広げた亡き母の思い出の品を前に立ち止まったりして、「書いてみよう」の方向に舵がきれたのです。

脳死

 『人魚の眠る家』は、「脳死」をテーマにした作品です。
主な登場人物のみ書き出してみましよう。

瑞穂・・・・播磨家の長女。小学校入学が来春にせまるという年齢のときに、プールでの事故で溺れる。
    病院に搬送されるも医師からは脳死状態と告げられる。
生人・・・瑞穂の弟
薫子・・・母
和昌・・・父、株式会社ハリマテクスの社長
星野・・・和昌の会社で働く社員

もちろん、作品を彩る他の登場人物もおりますが、今記事に必要な最低限の人物のみを書きました。

そう、

瑞穂はプールで溺れ病院に搬送されました。
両親が駆けつけたときはICUに運ばれており、人工呼吸器により生かされておりました。
しかし、
脳波は全く動いていないこと。
自発呼吸を取り戻す可能性、および意識が戻る可能性は0パーセントであることを医師より伝えられます。

今は延命措置で生きてはいるが、いずれ死に至ることは確実であることが告げられ
その上で
「臓器を提供する意思があるか?」
を問われました。

離婚前提の別居生活に及んでいた夫婦は、その晩は一つ屋根の下に戻りその事を考えます。

臓器移植や、それに先立つ脳死判定などについて
色々なことを調べつつも最後は、
「瑞穂なら、とうしてもらいたいだろう。」
と、意思を示すことができない我が子の思い想像することで結論に至りました。
脳死判定を受け、その結果に応じ臓器を提供することに賛同することにしたのです。

 翌日その事を医師に伝え、我が子と最後の別れをする場面。
夫婦が我が子の手を握り、弟が
「お姉ちゃん」
と声をかけたときです。
二人は同時に、娘のかすかな手の動きを察知したのです。
母薫子は一瞬のその感覚から、何を感じたのか?
一転臓器提供を拒否したのです。

(不随意的な反応としてそのようなことが起きると説明されても、母の気持ちは変わりませんでした。)

瑞穂に対してはそのままの処置が続き、命がフェードアウトするのを待つことになります。
ただしその期間は、数日の可能性が高いものの、数ヶ月生存したような例もあったということで、瑞穂の命も延命措置の助けを得ながら、安定を保ち始めます。

自宅介護

 しばらく後、薫子とその母は看護の研修を積み、瑞穂は自宅で介護されることとなります。

 さて、父和昌が経営する会社は、BMI(プレーン・マシン・インターフェース)を開発し世に提供する会社です。
BIMとは、脳と機械とを信号で繋ぎ、特に障害を負った人の生活支援をする機器です。

まずはその財力によって、瑞穂はコンピューターからの信号で横隔膜を動かすAIBSの手術を施され、気道切開を免れた上、外部装置としての人工呼吸器からも解放されます。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/satoh-clinic/clinic/pacemaker.htmlwww001.upp.so-net.ne.jp

さらにはハリマテクス自前の技術力によって、そのままでは弱ってしまう筋肉を補強するため、信号によって手足を動かす試みも始められます。

会社から、若き技術者星野が動員されました。
技術開発のための研究という名目で・・・・。


 母親、祖母の手厚い看護と、最新の技術によって
瑞穂は生き続けます。
ただ、生きているだけでなく、体温血圧などの恒常性が保たれ、身体も成長してゆくのです。

この子は死体なのか?

 しかし、このような有り様に対する意見や感じ方は様々です。
一点の迷いもない風に見える母親の内部にもそれは芽生えます。

臓器移植を待っ子どものための募金活動に接したことがきっかけです。

日本での臓器提供者が少なく、国内での手術の目処が立たない現実を知った母。
そのためには海外に行き臓器提供を待つ、という手段しかない子どもとその家族・・・。
莫大な金銭がかかります。

助からないと分かっている子どもを生き延びさせるために、沢山のお金と技術をかけている自分。
身を裂くような悩みに突入した薫子がとった行動は奇抜ですが、ここでは触れません。
彼女はその行動を通して、さらなる確信を得るわけですが、周りの人々は到底彼女の確信には追い付けないのです。

「電気仕掛け」
「生命への冒涜」
「気持ちが悪い」
自分の確信とは裏腹に、
周りのこのような反応も耳に入ってきます。
長男生人も、これに晒され苦しみます。

孤立し、意固地になり、ノイローゼのようになってゆく薫子。


この本をこれから手に取る方のために、筋書きに関して書くのはここまでにしておきましょう。

脳死とは?

 私の印象に残ったのは、和昌が我が子の状態について、改めて医師と話し合った部分です。
確実に脳死状態だと告げられるわが子の身長が伸び、血圧体温調節がなされていることへの疑問を、父親は医師進藤に向けました。

脳死の定義は、脳の全機能停止です。判定基準は、それを確認するものとされています。しかしそれは建前にすぎません。なぜなら脳について我々はすべてを知っているわけではないからです。どこにどんな機能が潜んでいるのか、まだ完全にはわかっていません。それなのにどうやって全機能停止など確認できるでしょうか」


「御存じかもしれませんが、脳死という言葉は臓器移植のために作られたようなものです。1985年、厚生省竹内班の脳死判定基準が発表され、その基準を待たした状態を脳死と呼ぶということになったのです。はっきりいうと、全機能停止とイコールかどうかは不明です。だから判定基準は誤りである、という人もいます。脳死を人の死とすることに反対する方々の意見は、概ねそうです。」

医師はこのように告げ、竹内基準は人の死を定義付けるものでなはなく、臓器提供に踏み切れるかどうかの見極めのための基準であると説明します。

本来ならこの状態は
『回復不能
『臨終待機状態』
といった表現が適切
なのだ、と

「・・・・・・しかし、脳死移植を進めたい役人たちとしては、死という言葉を入れたかったのでしょうね。・・・・・・・」

臓器移植には「脳死」が人の死かどうかは関係なかった。
しかし、生きている人間から臓器を取り出すことを法律で認めるのは困難であり、人々の理解も得にくい。
だから「脳死」という言葉を採用し、まずは
『その人はすでに死んでいる』状況をあえて作りあげた。


なるほど・・・。
このようなことに早くから問題意識を持つ方々にとっては既知のことなのかもしれませんが、私にとっては、今にして突きつけられた考え方です。

東野氏は、このような事実を浮き彫りにして見せてくれましたが、だからといって
「臓器移植」そのものに対する賛否まで踏み混んで書いてはおられません。
そこから先は各々の考えかたに委ねられるのです。

延命措置について

 私は脳死判定や、臓器移植について未だ信念を持ってはおりませんし、そのわからなさを性急に、埋めてしまう気持ちもありません。

ただ、昔なら・・と思うのです。
人は不慮の事故にあい、それが重篤な状況であれば、一直線に死んでしまったのです。
死に至るまでの期間の長短はあれど、生きるか死ぬかを決めるのはその人の生命力次第。
そこに委ねられたのです。
多少の手当てを施したあとは、
本人以外の人が介入できなかった領域でした。

しかし、今や高い技術による「救命」という措置がなされます。
それによって多くの貴重な命が助かるようになりました。

また、救われる命と、助からない命の中間の状態・・・・生死をさ迷う状態に対しては、その人の
「生命力」に委せるだけでなく、「延命」という措置が取られるようになりました。

患者は死へ向かうまでの間を管理されるようになったのです。

これは、何のためなのか?
患者のためか?
家族のためか?
はたまた
脳死による移植のためなのか?

本書の中で、医師が口にした
「臨終待機状態」という状態で生かされながら、
この状態を「脳死状態です。」と告げられる。
え?死?死なの?
あっ、脳が、脳が死んだの。?!

しかしまだ横たわる身体は温かく、血液も流れているのです。
それが作られた状態であるとしても、それを見せられた上で、脳死判定へと進むか否かを家族は迫られます。


移植同意すれば、その身体に対し脳死判定を施し、正式に判定が出れば、直ちにダメージの少ない新鮮な臓器が取り出されるのでしょう。

そうなるとそもそも、脳死状態て施される延命は、役に立つ新鮮な臓器に対して施されているのではないか?
そんな風に感じてしまうのです。
感じるなといわれても、私は感じてしまったのです。


本書では
「医師は、臓器移植を勧めるということは決してしない」
と書かれており、登場する医師は大変誠実で、家族の意思を尊重してくれるのてすが、
そこで意思表示を任される家族も大変なものではなかろうか?と思うのです。

法律はどうなっているのか
生命維持治療の中止を含む患者の事前指示を定めること、その事前指示に従って治療を中止した医師の免責を規定した法律は、今のところ存在しない(原稿執筆2018年8月25日現在)。

したがって、生命維持治療中止に関する国や専門職の団体などによるガイドラインはあるものの、それに従って生命維持治療を中止した医師の行為が適法か、適法でないかは不明である。
つまり、上記のようなガイドラインに従った適切なプロセスを経たとしても、第3者が警察へ通報した場合には、警察は捜査しないわけにはいかないのである。

こちらから引用いたしました。
www.kango-roo.com

患者の事前意志が得られない場合は、家族の承諾のもと外すことは可能だということですが、
生かす措置を諦めるといことを、家族は積極的にできるものでしょうか?
思慕の対象である人の命を、自分たちの決断によってどうにかしなければならないというのは相当に厳しいものなのではないでしょうか?

対面するの身体が、もう亡くなった姿なら、このような葛藤は生まれませんん。
先ほどの問いが何度でも押し寄せます。
延命措置というものは、いったい誰のためにあるのでしょうか?


延命措置というものにどう向き合うかは、たくさんの難しい問題が孕んでいるようです。


たかだか、一冊の物語を読んだだけですので、このことに関してはまだまた、知識も足りず、経験も不足しております。
病、事故、障害・・・・様々な困難や苦しみがあり、それに伴う家族の苦悩や悩み、また喜び、希望もあることでしょう。
整理のつかない私の思いを述べたにすぎません。
どうかご理解くださいませ。
続く記事では、亡き母の思い出ボックスからでてきたものを話題にしたいと思います。