観光アイヌ・・・新聞切り抜き

下車して歩く

 私のブログは思いついたことを、その都度書いていく雑記ブログです。
カテゴリもその時の思いつきで追加して書き進めております。
「切り抜き・マイスクラップ帳」もその一つでした。

12月はいくらかでも新聞切り抜きを記事に連動させて、整理するつもりです。
たまたま目に入った一年前の切り抜き「樺太のバフンケ」は、思いがけない驚きを私にもたらし、前回の記事となりました。
先住民族の遺骨返還に関わる記事でした。
kyokoippoppo.hatenablog.com

次の切り抜きを選ぶに際し、この流れに沿う形を取り、アイヌ民族関連のものにすることにしました。
ちょいとここに足を留め、2~3記事書くことにしたのです。

ウポポイ


(日付の記録なし。ご容赦を!!)


画像はこちらのページより↓
ainu-upopoy.jp

【ウポポイの主要施設】
国立アイヌ民族博物館
先住民族アイヌを主題とした日本初の国立博物館アイヌ民族の視点で語る多彩な展示で歴史や文化を紹介します。
国立民族共生公園
体験型フィールドミュージアムとして、古式舞踊の公演や多様な体験プログラムを通じて、アイヌ文化を体感できます。
慰霊施設
アイヌの方々による尊厳ある慰霊を実現するための施設として、ポロト湖東側の高台に整備されます。

来年・・2020年4月に「ウポポイ」という施設が開館します。
民族共生象徴空間だということで、画像をご覧になればお分かりのように大変立派で豪華な施設です。
川村湊氏はこの施設について次のように述べておられます。

白老のポトロ湖畔に「ウポポイ」の豪勢な建築物は姿を現しているが、これまでの一点豪華主義の「箱モノ行政」の二の舞ではないかと、老爺心を持たざるをえない。

また、
前宣伝として行われているイベントも、

ユカラの朗唱やムックリ口琴)の演奏、アイヌ舞踊や歌の披露、工芸品の展示や製作実演、宗教的儀式の再現などこれまでのいわゆる「観光アイヌ」の出し物とさほど次元の異なったものが見られない。

と落胆の思いを語っておられます。

ウポポイと対比させて、これまでにある既存の施設をあげ、それらが公的な支援も得られず、個人や有志の細々とした努力のみで支えられていること、それも力尽き閉館を余儀なくされているものもある、と書かれております。

●「知里幸恵 銀のしずく記念館」
●「川村カ子()トアイヌ記念館」
屈斜路湖畔「コタンアイヌ民族資料館」(閉館)
●「エコミュージアムおさしまセンター」(施設は充実ているがアクセスが悪い)
●北方少数民族ウィルタ文化遺産の展示「ジャッカ・ドフニ」(廃館)

カウンター・カルチャーは封じ込めたまま・・

川村氏は言います。

「ウポポイ」は、あくまでも「象徴」にすぎない。現代に生きるアイヌ文化の実質は、これまでのアイヌ語の抹殺政策や、民族文化の否定に対する、しぶとく、粘り強い抵抗文化(カウンター・カルチャー)としての運動性にあった。
鳩沢佐美夫が痛烈に批判した、「観光アイヌ」の文化復興を許してはならない。

アイヌ文化が観光に取り込まれ、観光の目玉としての役割を担わされればされるほど、「抵抗文化」としての運動性は損なわれるでしょう。
「抵抗文化」は「公共の利」とはそもそも馴染みませんので、「ウポポイ」にそれを期待することは土台無理な話といえましょう。
しかし、それにしても・・・この施設が「観光」「経済」「客寄せ」一辺倒に走れば、皮肉にも、先住民族の本来の魅力を削いでしまうことでしょう。

これは、上記の新聞記事を一部拡大したものです。

このような文学作品へ光をあてる重要性にも言及されておられます。

弟子屈

アイヌといって連想するのは「木彫りの熊」というくらいの貧相な連想しかできない私でした。
(勤務する学校で、アイヌの文化を子どもたちと共に学びはしましたが、単元を終えれば、私の心はそこに留まることをしませんでした。)

 2012年家族親族で訪れた「川湯温泉」・・・路地には木彫りのお土産屋が軒を連ねておりました。


写真はkitanonecoさんのブログから、了解を得た上でお借りしました。
第2回川湯温泉はしご酒大会 – きたのねこから

夜道に映る店々の灯り。
店内にはこれでもか??という量の木彫り作品がありました。
もちろん熊たちもたくさんおりましたよ。
私たちがもとめたものは安価なネックレスどまり。
たいがいの客がこんなところでしょう。
繁盛してるとは言い難い印象でした。

そこには、アイヌの末裔たちが生きていく術として「観光」と結びついた姿がありました。

木彫りの熊たち

 さて、私がアイヌといえば・・・と結びつけた木彫りの熊ですがWikipediaにて意外な発見をいたしました。
下に一部分を貼り付けました。

現在、木彫りの熊は「アイヌの伝統工芸品」とのイメージが強い。だが、伝統的なアイヌ文化においては「リアルに象られた物は、魂を持って悪さをする」との考えがあり、アイヌは動植物、あるいは人物の姿をリアルな形で木彫としたり、絵画として描いたり、織物に織り込むことはしなかった。ましてカムイとされるヒグマをリアルな姿で木に彫り込むのはあり得ないことだった。
現在の熊の木彫りは、尾張徳川家の当主であった徳川義親が、1921年(大正10年)から1922年(大正11年)にかけての欧州旅行の際に立ち寄ったスイスのベルンで熊の木彫りを購入したことが契機である。
翌1923年(大正12年)に、北海道二海郡八雲町にある旧尾張藩士たちが入植した農場「徳川農場」に送り、農場で働く農民たちや付近のアイヌに、冬期の収入源として熊の木彫りを生産するよう勧めた。
その結果、1924年大正13年)に開催された第1回八雲農村美術工芸品評会に北海道で最初に作られた熊の木彫りが出品された。

          ウィキペディアより(太字はkyokoによる。

カムイであるヒグマを、生活のために木彫りにしたアイヌのこと。
埋もれてしまいまかねない、資料館たち。
「鳩沢佐美夫」という人物。
紹介された本『十勝平野』。
[asin:B07XF5QVRS:detail]

人気を博したという『ゴールデンカムイ』。


私の知らないもの、知らないことがまだまだたくさんあるのです。
地理的な平面のなかにも、過去から未来へとつながる時間軸のなかにも・・・。

ゴールデンカムイ』は本日図書館に予約を入れました。