タロとジロ
『その犬の名を誰も知らない』を再び開きましょう。
1959年1月、北村泰一氏は、第三次南極越冬隊として再び南極へ向かっていました。
地球物理に関する観測調査をすることを希望し、志願をしたのです。
しかし、北村氏の内心の目的は他にありました。
一次越冬隊撤退時に置き去りにした犬たちの弔いをしたかったのです。
その本音を隠して選考審査にエントリし、再び越冬隊として南極へ行くことが叶います。
14日接岸。
一年間放置された基地の様子を探るために一番機に乗った隊員数名。
彼らは、基地上空より、走る2匹の犬を確認したのです。
すぐに「宗谷」に残る隊員たちにも連絡が入りました。
「いったいどの犬だ?」
到着した先発の隊員たちは、激しい敵意をむき出しにする犬に対面することになります。
近づくこともできませんでしたし、もちろん2匹の個体の判別もできませんでした。
そこで北村氏がヘリに乗り込み現地へ向かいました。
到着した北村の100メートル先に犬たちはいる。
「おーい。」
北村氏が駆け寄るも、犬たちは後方に下がります。
そう、寄っては来なかったのです。
この対面の様子は、YouTubeでちろりと観た映画のものとは違っています。
そして北村氏も、2匹の犬の判別ができなかったのです。
「こんな犬いただろうか?」
頭の整理ができません。
置き去りにした犬は、飢えてやせ衰え、死んだであろうと想像してきた北村氏ですので、まるで子熊のような立派な体型の犬たちを前に、戸惑いを感じるのでした。
「お前?ヒップなのか?」
2匹は同時に唸り声をあげ、北村氏は恐怖を覚えます。
「ゴロなのか?」
・
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「モクかい?」
体毛の黒かった犬の名を呼ぶも、警戒の唸り声をあげ北村氏を近づかせない2頭。
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「タロ?」
一頭の目がふっと穏やかになりました。
下げっぱなしの尾が心なしか上を向く。
「タロ!タロ!」
激しく尻尾を振る犬。
ああ、犬はこの言葉を待っていたのですね。
自分がタロと呼ばれていたことを覚えていたということです。
「ジロ!」
これに反応し、右の前足を上げた犬。
これはジロが甘えたいときにする癖でした。
北村が雪原にひざをつき、手を広げるとタロとジロは猛烈な勢いで突進してきました。
歯を剥き全身で敵意を表出していた2匹の警戒を解いたのは
「タロ」「ジロ」
という言葉でした。
久しく呼ばれなかった自分の名から、全てを思いだし北村氏に抱かれたのです。
一年ぶりの人間との出会いはこのようなものでした。
映画で描かれた場面より、ずっと感動的です。
私はそう思います。
2頭が生きていたというニュースは、世界中を駆けめぐりました。
北村氏にとっても、人生一番ともいえる幸福を味わった瞬間でした。
(写真は2018年の西日本新聞のウエブページよりお借りしました。)↓
www.nishinippon.co.jp
しかし、他の犬たちの消息は?
残る13頭の消息を調べなくてはなりません。
しかし、それはここでの仕事の優先任務ではありません。
空いた時間に係留地近くを掘り起こす北村氏でした。
「見つかるものが首輪だけなら・・。」
そう願う北村氏。
せめて自由を得て、生きる可能性をつないだかもしれないと思うのでした。
掘り起こす場所が定まらず、時間が過ぎていきましたが、とうとう・・・・
2月26日・・・・風連のクマの首輪発見。
3月2日・・・・ジャックの首輪。
犬たちは皆逃れることができたのかもしれない・・そのような安堵が胸によぎったのもつかの間。
3月3日・・・・ゴロの遺体が見つかりました。
解剖されたたゴロの胃袋にあったものは縦20センチ横15センチほどのビニール片でした。
飢えにさいなまされ、口にしてしまったのでしょうか?
体重は22キロ。以前の半分になっていました。
同日・・・・・モクの遺体。
3月4日・・・・ペスの遺体。紋別のクマの遺体。
3月16日・・・・アカの遺体。クロの遺体。
リキの首輪・・・「ああ!!お前は首輪から逃れたか。」
アンコの遺体。
首輪も名札もなく体毛のみ残したのはデリー。
生存2頭
死亡確認7頭
不明6頭。
7頭の犬たちは、水葬により葬られました。
何とか仲間と近づこうとして鎖ギリギリまで接近して死んでいた犬たちを、北村氏は、積み上げてひとかたまりにして運びました。
犬ゾリに積まれたカラフト犬七頭の遺体。それは南極で置き去りにされて死んだ犬への、哀悼のケルンだった。
『その犬の名を誰も知らない』より
一頭一頭に言葉をかけ水葬にする場面は、涙なしには読めません。
さて、
タロとジロは、なぜ過酷な南極で生き延びることができたのか?
また、「第三の犬」は結局どの犬とされたのか?
これは、本書をお読みになってお楽しみ下さい。
ウヤミリック
『極夜行』について綴った過去ブログから一部抜き書きいたします。
角幡氏と相棒ウヤミリックの過酷な旅の場面です。
当てにしていたデポ(あらかじめ配置し保管しておいた食料のこと)が熊に食い荒らされてしまいました。
獲物を獲らなければウヤミリックの食べ物はほとんどありません。
しかし、生き物が一匹も姿を見せない日が続きます。
(何度か貼ったもので恐縮ですが・・・・。)
kyokoippoppo.hatenablog.com
* * *
絶対に犬を死なせない、旅を終わらせないと固く決意してここまで来たが、現実として獲物がとれず、暗闇のなかで体力がむしり取られていくうちに、私は犬の命や自分の旅に段々無関心になっていった。そしてもはや犬の死肉は完全に計算のうちに入っており、犬が将来死ぬことを想定することで私は自分が死ぬ恐怖から逃れることができていたのだ。
犬はげっそりと痩せこけ、惨めな身体つきになっていった。前日よりも明らかに腰回りの肉が削げ落ちており、日一日と小さくなっていくのがよく分かる。雄々しい狼のようだった顔つきも飢えた狐のように卑屈になっていた。
身体つきだけではなく行動にも今まで見られなかった顕著な変化が現れていた。私に物乞いのような仕草をするようになったのだ。
前日の行動中に休憩しようと橇に座って行動食の袋を開けたときだった。犬はゆっくり立ちあがり、のろのろと私の横にやって来て、お座りの姿勢をしたまま、カロリーメイトやチョコやナッツを頬張る私の様子を、力を失ったくぼんだ目でじーっと見つめたのだ。
角幡氏は犬の身体を頻繁にさわり痩せ具合を調べます。
触られるのが大好きなウヤミリックは恍惚の表情をして目をつぶります。
しかし、その尻や骨のまわりにも肉はほとんどなくなっているのでした。
毎夜犬の死を想像し、眠れぬ夜が続きます。
* * *
ウヤミリックのその後についても、ここでは書かないことにしておきましょう。
ブチ
白瀬南極探検でそりをひいた先導犬ブチは、ヤヨマネクフとともにカラフトの落帆村(オチョポッカ)に帰ってきました。
そう、海南丸に乗ることのできた一頭だったのです。
ヤヨマネクフは帰る前にアイヌ語研究者の金田一京助とともに『あいぬ物語』を書いています。
ヤヨマネクフがアイヌ語で話し、金田一氏が日本語にまとめたものです。
そのなかに、「メーヂ、レパー、イカシマ、イーネ、クンクト、パー、ネー、パーケヘ、サキータ、ナンキョク、タンケン、ウェペケレ、アン、ヌー」
「明治四十三年の夏の頃、南極探検の噂が聞えた」と始まる「南極探検」もおさめられています。
『やまとゆきはら』より。
(本書では日本語にアイヌ語ルビが乗る形で記述されておりますが、ここでは分けて書きました。)
『やまとゆきはら』はこのようにお話を閉じております。
写真は落帆村にあるヤヨマネクフとシシラトカの功績を讃えた慰霊碑。
ロシア語と日本語で書かれています。
写真は稚内市のサイトからお借りしました。
www.city.wakkanai.hokkaido.jp
終わりに・・
思いのままに、8記事も書きました。
大満足です。
お付き合いくださった方々・・・本当にありがとうございます。
物語の中の犬たちの姿に感動し涙した私でしたが、物語にもならない場面で、ペットとして多くの犬が商品として生み出されていること、
その過程で痛ましい環境に置かれたり、売れ残った命が粗末に扱われていることなどにも目を向けていかなければならないと思います。