さ・と・し・わ・か・る・か

点字

 前回の記事の続編となる今記事です。
借りてきた本を、我慢できずに読み出したところ二日で読み終わってしまいました。
同じ名字であるお母様も登場いたしますので、福島智さんを智氏。お母様を令子氏と記述いたします。
(このような記事を書くときの敬称・・難しい!)

『さとしわかるか』表紙の上部にはタイトルが点字で打たれております。

目も見えず、耳も聞こえない「盲ろう者」でありながら昨秋、東大教授となった福島智氏。9歳で失明してから、18歳で耳が聞こえなくなり、「指点字」という独自の会話法を編み出すまでの苦難の日々を、母親である令子さんが初めて綴った感動の子育て、闘病記。


目をつぶりそれをそっとなぞってみます。
まあ!!
さっぱりわかりません。
目の不自由な方はこれを瞬時に判別できるのか??
見える私は点を見て理解しようとしますが、見えない方は触った指の感触でこれを判別します。

智少年もすかさず声をあげました。
「そんなん無理や。こんな小さい点々が読めるわけないやろ。・・・・・・」

腹が立つのも無理はない。点字の一つずつは、カイコの卵ほどしかない。

一字ずつは、ほんのわずかに異なるだけである。

しかし、視力の回復が見込めないことが確実となり、盲学校へ編入することが決まった智少年は、点字を解読できるようにならなければなりません。

「これは何という字かなあ。おいおい八っつあんや。おまはんはどないに思うかな」。
落語の好きな智は、その世界の住人と会話をしているらしい。
「大家はん。わいにはどうも『そ』に見えますけどな」
「はいな。おまはんもそないに思いますか。」・・・・

引用は『さとしわかるか』より。

智少年が持つこのようなユーモア。
このユーモア精神は、その後の過酷な人生においても大きな助けとなりました。
点字を覚え、盲学校に通い、残された聴覚をフルに生かし楽しんだ福島氏でしたが・・・。
大事な聴覚が徐々におかされてゆきます。


どん底

 3歳で右目を失明。
眼球摘出。
9歳で左目を失明。
それだけでも過酷なことなのに、今度は耳が・・片耳ずつ聴こえなくなってゆく。
じわりじわりと、時間をかけて苦しみへと絶望へと追い詰められてゆく。
 
どんな治療をしても治らない。
何の薬を飲んでも好転しない。
それどころか、深刻な副作用に苦しめられる。
補聴器に頼れば、耳は更なるダメージを受け、残りわずかな聴力までが容赦なく削がれてゆきました。


 O病院O医師による、自然治癒力をあげるための療法に挑んだのも、”藁にもすがる”思いからでした。
「リンデロン」という副腎皮質ホルモンに対する強い疑念からでした。

●食事は一日一食。玄米菜食のみ。
●毎日運動。10キロのランニングか、もしくは縄跳び5000回。

過酷な療法です。
父親は反対しました。
家庭にも不協和音が生まれ、
母親は更に孤立。
孤立の中での迷い。

これでよいのか。もしかして手遅れになったのではないか。


智氏もその頃、存在そのものが飲み込まれてしまったような圧倒的な孤独の中にありました。

私はこの「世界」にありながら、実は別の世界で生きていた。私一人が空間のすべてを覆い尽くしてしまうような、暗くて狭い、静かな「世界」で生きていたのである。

『生きるって人とつながることだ!』より。


同じ空間に居ながら、息子のその孤独に手を差し伸べることができない家族。



手記は第八章、どん底へと続きます。

 いったいどうすればよいのか・・・・・・。夫婦も家庭も、もう終わりかもしれない。人生さえも・・・・。

毎夜しのび泣きする妻に夫が声をかけました。
「死にたければ、お前が一人で死ね。智を道連れにするな。」
と。

ここがこの一家のどん底でした。

夫の言葉を、当時は切なく悲しく受け取った令子氏でしたが、後から、これは夫からの精一杯の励ましであったと思うようになりました。



どん底が浮上の転機になる・・・このような事例は人々の体験の中でよく聞かれることです。

その頃病院帰りの親子は小柄な白いひげの爺さんに会います。
見ると「八卦」の看板がある。
その老人は福島氏の顔をしげしげ眺めると、次のように言いました。
「このお方は、今、人生の岐路にたっておる。しかし、ご先祖たちが大勢で見守っています。先祖の中には尊いお方のお姿も見受けられます。大変ですが頑張って下さい。」

指点字の誕生

 「指点字の誕生」という記念すべき日がいつのことだったのか?
令子氏は覚えていないといいます。
ある日突発的に思いつき試されたものだったのです。

令子氏が、あまりに偉そうな息子の物言いに苛立ち何か言い返してやりたい!!
ととっさに思ったときであったというのです。

しかし、言い返したところで息子には聴こえない。
台所には点字ライターも紙もない。
ふと思いつき令子氏は、智氏の両の手をとって引き寄せ、両手の人差し指、中指、薬指計6本を、点字タイプライターの配置に見立て打ってみました。
向かい合っているので逆に伝わるのですが、お母さんはその調整をする余裕はない。
「さ・と・し・わ・か・る・か」
生意気な息子に直ちに、ものを言い返そうとして行った意思疎通が指点字だったのです。

ここには、お母さんの生々しい感情がありました。
血が通った、なまものとしての言葉の伝達がここに成立したのです。



ヘレン・ケラーが手で水を受け「water」を知ったときに匹敵する重要な瞬間。
令子氏はこのように書いておられます。

しかし、智氏は初めは指点字をあまり歓迎していなかったようです。

後に東大の博士論文執筆のために、母親にインタビューした折、智氏は、
「まあ、気色悪かったんだよ。あんたは点字下手だし」
と当時のことを語ったそうです。

母の声

 母親に手を取られて、気色悪いなどと思ったらしき智氏ですが、
この瞬間について、彼は『生きるって人とつながることだ。』の中で次のように語っています。

「な、なんや、何しと・・・・・・?」。また文句を言いかけた私の言葉が、途中で止まった。
突然、母の「声」が私の心に伝わってきたのだ。
(さ と し わ か る か)
点字の組み合わせを利用して、指から指へ、直接伝えている。これはおもしろい!
「ああ、わかる、わかるで。妙なこと考えよったなあ」
口ではそう言いながら、私の内部で、何かの光が激しくスパークしたように感じた。「指点字」考案の瞬間だった。

 突然伝わってきた「母の声」・・「声」・・・それは智氏が失った「音声」として伝わってきたのでした。
指点字がなければ、今の智氏は存在しなかったでしょう。
お母様の発案された指点字は、音のない闇に暮らす息子を救ったのでした。

 どん底からの浮上が始まります。
しかし、V字のように一直線に・・
全ての悩みを払拭するように・・とはならなかったでしょうね。
その後もあがきあがきの日々を続けているうちに、少しずつ陽の当たる場所へ近づいていった。
そんな風だったのではないか?と思いますよ。
 
* * *
 
 智氏が大学院生になった年、お父様である正美氏が蜘蛛膜下出血で倒れ、一年八ヶ月の療養の後にこの世をさりました。
智氏には二人のお兄さんがいらっしゃいます。
母親は智少年の世話にかかりきりとなり、お二人の養育はもっぱらお父さんが引き受けました。
お仕事(中学校の教師)をしながらの養育。
さぞかし大変だったことでしょう。
また、幼いころからお母さんと引き離され、自由に触れ合うことが少なかったお兄さん二人もさぞかし淋しい思いを味わったことでしょう。
それを思うお母さん、令子氏の辛さも厳しいものだったことでしょう。

ご一家の皆さまおひとりおひとりに、尊敬の念を抱く私です。

『さとしわかるか』

失ってゆく

福島 智(ふくしまさとし)という方をご存知でしょうか?

以下Wikipediaからの抜粋です。

福島 智(ふくしま さとし、1962年12月25日 - )は、日本のバリアフリー研究者。
東京大学教授(博士(学術)、東京大学)。専門は、バリアフリー教育、障害学、障害者福祉、アクセシビリティ
社会福祉法人全国盲ろう者協会理事。世界盲ろう者連盟アジア地域代表。世界で初めて常勤の大学教員となった盲ろう者


「盲ろう」という障がいから、ヘレンケラーの名を思い浮かべる方は多いことでしょう。
ヘレン・ケラーの発症は1歳半のとき。
極幼いときでしたので、発語を覚えることができず三重苦を背負うことになりました。

福島智氏の障がいも、後天的に見舞われたものですが、発語が身についた後のことでしたので、話す不自由は無いそうです。

しかし、ヘレンの三重苦と比べて、それが”程度として軽い”などといえるでしょうか???
そもそも両者を比較することなどできませんが、その体験の質の違いを思わずにはいられない私です。

1歳半のときに視覚と聴覚を奪われたヘレンは、
見えて聞こえた記憶をほとんど残さなかったのではないでしょうか?
色も、音も知らずに成長したと思われます。
大きな困難であり、苦しみであったことは間違いありませんが、ゼロ地点からの成長であることを思えば、サリバン先生と出会った後のヘレンの体験は、主に加算されるものであったといえましょう。
新しい世界を知ってゆく。
未知のものを知ってゆく。
無かったところに世界が生まれてゆく・・。

そのようなものだったのではないでしょうか?


福島氏の方はどうでしょうか?


 福島智氏は、3歳で右目、9歳で左目を失明しておられます。
さらに、18歳のときには失聴し、全盲ろう者になったのでした。
大事な感覚器官が次々に奪われていく・・。
そういう体験をなさっているのです。

見える世界が・・・聞こえる世界が・・・
病魔とともに失われていく体験の恐ろしさ。
それは、ヘレンも知らぬ過酷なものだろうと思うのです。

私は、目を閉じたままの状態でどれだけの時間我慢していられるでしょうか?
無音となった世界で、何を感じるでしょうか??
もし、自分が永久に見えぬ世界、聞こえぬ世界に閉じ込められたら・・・
底知れぬおそろしさと不安のために、錯乱状態になると思います。

この本によって「福島智」を知った私でしたが、


先日、学校図書室で『生きるって人とつながることだ!』を見つけ、こちらを先日読み終えました。(装丁の違うものですが)

そもそも光を失うことだけでも、相当な衝撃だろうと思う私ですが、福島氏はこの体験を、次のように書いておられます。

私が失明したのは九歳のときだった。私にとって失明体験は、それほどショックではなかったようだ。

びっくり仰天です!!
理由として、
まだ九歳であったし、もともと楽天的な性格でもあったから・・。
このように綴られています。
九歳までの間に、目の不自由といいだけ付き合ってきたからでしょうか??

とはいえ、光を全く失ってしまった喪失感は相当なものでしょう。

見えなくなったことで失ったものは大きい。

しかし、

音楽、スポーツ、テレビにラジオ。自由なおしゃべり。そして白杖を使っての一人歩き・・・。音を頼りに楽しめること、できることは無数にある。

このように文章は続きます。

実際に、自分に残された世界の中で福島氏は、おおいに楽しみ、活動していたのでした。

世界の喪失

 しかし、彼は、貴重な「音の世界」までも失ってしまうのです。

中学2年生のときに、右耳の聴力が低下し、高校2年生の冬には左耳の聴力が急激に低下していきました。
生きる世界が徐々に奪われていったのです。

 そうしたある日、私は実家にあったピアノの鍵盤を叩いてみた。同じ鍵盤を叩いているのに、音程が変化していく。それはちょうど、ピアノ調律のとき、一つの鍵盤が微妙に音を変化させていくような感じだ。あのぞっとするような悲しげな響きは今も忘れられない。そして約三カ月の間に完全に失聴し、全盲ろうになった。

私はこの「世界」にありながら、実は別の世界で生きていた。私一人が空間のすべてを覆い尽くしてしまうような、暗くて狭い、静かな「世界」で生きていたのである。

 しかし、福島智氏はこのような地点から、社会とのつながりを取り戻してゆきます。


今は、東京大学の教授という職を得て、ご自分の体験を社会の役立ちに差し出しておられます。
元来持ち合わせているユーモアを発揮して生活を楽しんでおられます。



それを知ってもなお、私は氏が経験した絶望の深さや痛みに、心が震えるのです。
さらには、息子のその苦しみを間近でみなければならなかったご両親の痛みはいかばかりだったか??
と思わずにはおられません。

『生きるって人とつながることだ!』中で、母親の手記、『さとしわかるか』も世に出ていることをを知りました。
このお母様こそ指点字を考案された方。
光も音も無い世界に取り残された息子を、なんとかこの世界につなぎとめようとの思いから編み出したのが「指点字」なのです。


・ 「指点字」は、目も耳も不自由な人とのコミュニケーションのために、点字タイプライターのキーの配置をそのまま人の指に当てはめ、手と手で直接行う会話法です。
・ 6つの点で構成される点字の組み合わせを、左右の「人差し指・中指・薬指」で相手の指を「トン トン」とたたいて言葉を伝えます。
・ 道具も使わず、慣れるとかなりの速さで会話ができ、指と指との触れ合いで心の通った情報のやりとりができます。

指点字」は、9歳で失明し18歳で失聴した東京大学福島智教授(2008年現在)の母親が、氏が失聴した1981年に指をキーのようにタッチすることで会話ができることを知り、広く世に知られるようになるきっかけとなりました。

(こちらから引用いたしました。)www.benricho.org


町の図書館に所蔵されていることを知り、さっそく借りてきました。

「さとしわかるか」
これは単なる本のタイトルではありません。
お母さんの心の叫びです。
さ・と・し・わ・か・る・か



今読みかけの本もありながら、まずは手元におきました。

日曜日!満喫!!!

真なる日曜日

 日曜日!
しかも!晴れ!
しかもしかも、娘と孫はお友達家族と共に遊園地に!
つ・ま・り・・・フリー✨
たまにはね、こんなお休みもないと。
朝パチッと目が覚めました。
空は明るい。
時間をみたら何と!
3時45分。
あららら。でも朝ですよ。

kyokoippoppo.hatenablog.com

夜明けが早いこの時期、この地域はすっかり朝なのです。
起き上がりふとんに足を突っ込んだまま、スマホをながめ、そのあとシャワー。

ミョウバンを濾して、アバウト瞑想を行って。
作ることになっていたお稲荷さんを作って・・・・。
それでも7時前よ。

13日(日)のポイ活

 さあ!次はポイ活。(ちょいとしたお片付けを、ポイントにカウントする活動です。)

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出てきた雑誌を捨てよう!と思うも、未練があり、もう一度目を通したところ。

やはり、捨てられない数ページが見つかりました。
切り取って写真に収めて、残りを紙資源に回しました。
これでポイント1です。
切り抜いたものに関してはそのうち記事にしたいと思います。



 次は、布仕事。
手持ちのボロ布でのアバウト裁縫てす。
食卓椅子のカバーと、そこに置いてあるクッションのカバーを作りました。
さらには、座布団カバーの修繕。

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椅子カバーの布はね、夫がかつて着ていたワイシャツです。
長さが足りないところは縫い合わせ縫い合わせて一枚布に仕立て、取り外した座面に縫い付けました。
夫のおしりの下になるものです。
おしゃれな布である必要はナッシング!


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こちら、我が家の座布団カバー。ブータロウ付き!!
ソファの上に座布団乗っけるあたりが田舎者ですな・・。
これも、四角い端切れの寄せ集めです。
その端切れも、ほとんどが使用済みの衣類ですから、
使っているうち、1ピース2ピースとへたれてくるのです。

その部分を修繕しました。
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しましたが、もう全体的に擦り切れモードてす。
こんな危うい箇所(中央水色縞柄)がまだ残っております。
いずれ、全面リニューアルいたしましょう!!
そんなこんなのポイ活!!
修繕やリメイクは5ポイントですので、1日で11ポイント稼ぎましたわ!!

取扱い注意

 擦り切れつながりで、こちらもご紹介!
図書館にリクエストしていた本。
井上靖氏の『夏草冬濤』(なつくさふゆなみ)
が手元にやってきました。
『おろしや酔夢譚』(井上靖)の記事を書いた際、『北のベーア』さんより、https://cdn.profile-image.st-hatena.com/users/keyakinamiki67/profile.png井上氏の『夏草冬濤』『北の海』についても、良い本であるとご紹介いただき、さっそく読むことにしたのです。

夏草・・・の方が
町の図書館にはなかったため、北海道立図書館から取り寄せていただきました。


うわあ!!
年季の入った代物だ!!

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こちら、貸し出し延長はできず返却厳守が求められます。
現在読んでいる『冬の海』は、後回しにしてこちらをまずは読みましょう。

貴重品を扱うようにしてページをめくり読み始めました。
うん!いいですよ。
いいです!

なんでしょう??
生きた時代こそ違うものの、何故か懐かしい。
しみじみとした気持ちになるのです。


ああ、充実した日曜日。



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娘と孫も遊園地を漫喫したようです。
娘からもらった写真です。
観覧車から撮ったものでしょう。
この観覧車は、日本最北のものだそうです。
下に見えるは空中サイクルのレール。

さらば!!一真丸


この写真は昨年12月28日に撮ったものです。(流氷が来るので、冬は陸揚げされる漁船たち)
港にある「湧鮮館」で買い物をした際、スマホのカメラで収めました。
引退間近の漁船であることを知っていたからです。
縁のある船でもあるからです。


撮っておいて良かったわ!

みいやん

 今年の春、「湧鮮館」でみいやんに会いました。
「あああ!!!お久しぶり。」
彼女に会うと、しみじみと嬉しくなる私です。
友達と言って良いものか??
ラインもつながっていないし、TEL番すら知らないのです。

偶然会ったときにのみ交流を持つ・・・そうね・・やはり・・友人と言ってよいでしょう。

「どうしている??」
一真丸は??」
の問いに彼女は「売られていったのよ。」
と答えました。

そう・・・・一真丸は、湧別の港から姿を消していたのです。

Mさん・・みいやんは漁師の娘。
お兄様が漁師を継がなかったため、みいやんの夫君のMさん(こちらもイニシャルがM)がその仕事を継ぎました。
そして、昨年にはその仕事を辞め、船もこの春に売却したとのこと。

昨年末、見納めのような気持ちにかられ写真に収めたのは正解!!でした。

お仕事色々

 今の仕事に付く前、私は色々な拾い仕事に励んでおりました。


●一日1時間の工場掃除。
●週一回のペースで開いたキーボードの講師
講師といえば聞こえは良いですが、・・・農家のおばあちゃま達に、超簡単な歌を、指一本でも弾くことができるような楽譜にして 教えるというお仕事です。
●4週間に一回巡ってくるダスキンのお仕事。
不定期で頼まれる浜仕事
●こちらも不定期・・小学校でのお仕事。

その時のものがイラストとして残っております。
当時紙媒体で発行していた『いっぽいっぽ通信』に描いたものです。


このような浜仕事関連のイラストがまだ数点ございます。
一生懸命はたらいた当時の自分を思い出しながら、
お世話になった「一真丸」を忍びながら・・記事を書くことにします。
過去を振り返る個人的な記事!!(毎度個人的な記事ですがね!!)
スクロールしてkyokoの絵だけでも見ていただきたいわ!!!!

浜仕事いろいろ


一枚目の絵の中の船・・こちらは「弘恵丸」
放流の仕事のために数年乗りました。






早朝の寒さが身に沁みましてね、こんなに着込んで乗り込んだものです。
様々なお仕事に応じて、ざまざまな船に乗りました。

弘恵丸・東栄丸・金比羅丸・祐昌丸・孝定丸・そして一真
一真丸での仕事が一番多かったと思います。
一真丸・・いっしんという船の名前も好きでした。













息子さんが継ぐことになるか?分からないと事情もあったためでしょうか?
装備にあまりお金をかけず、なだめなだめ使っていた船のようでした。
トイレはこんな感じ。
船外に出っ張った箱の下に穴が開いているだけ、穴の下は揺れる湖面。
泳ぐ魚たち。

そのうちこのトイレさえ付けず
「おかあちゃん!!(みいやんは私をこう呼ぶ)トイレはこれだから・・。」
とポリバケツを指し示されたこともありました。
船のともでこのバケツに用を足し、湖に流す!!・・・そういうことです。

湖とはいえ、サロマ湖は、オホーツク海とつながった汽水湖です。
波がタプンタプン。
酔い止めの薬は必需品でした。
しかし、ある日それを飲み忘れ・・。
作業の途中で、具合が悪くなり、目の前に星が出て・・・・





これは、ちょうちんという資材からホタテの稚貝を振るい落としているところ。
ビールケースに座っておしゃべりしながら作業しております。
牧歌的です。
仕事に慣れない私たちのことも考えて下さったのだろうな。
大抵は立ち仕事。
網を高く吊り上げて飛び散らないようにした上で、バンバン振るい落とします。


次年度の地蒔き用の種をとるこの作業は、毎年夏から秋にかけ行われます。
みいやんとは、この時期に年一回なれど濃密な時間を過ごしたものです。
色々なおしゃべりをしました。
ほんとうにこの時だけ・・。

小学校の支援員の仕事が定着し、浜の仕事はすっかり遠ざかりました。

みいやんとも会うことが無くなりました。
でもね、偶然どこかで会えば、話に花が咲く。
そのままの勢いでお宅にお邪魔し、語り続けることも・・。
みいやんのこと・・・・私大好きなんだ!!
彼女は漁師の娘、妻である以外の顔をお持ちなんですけれど、それはここでは語らないことにいたします。

この絵もここに貼りましょう。
ポンプがけのリアルです。



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色々なお仕事を体験できたことは、私の財産!!
ここで暮らさなければ、味わうことができなかった仕事の数々でした。

カテゴリーは「お片づけ」なれど・・・

片付かぬ

まつのたく
全く・・・
片付いておりません。
ん???
どんな風にって・・・見せられる状態ではありませんよ!!
だって、月から金は働いて、先週であれば金曜日に娘が「頭が・・・・」と悶え苦しみ、土曜日は浜遊び、
日曜日は頼まれ文章を書く作業。
合間に庭の草は取らねばならんし・・・・・。
ブログのお楽しみはもう、ルーティンワークですし・・。

・・・と片付かぬ理由を述べたてたわけですが・・

えっへん!!!

ノルマの「ポイ活お片づけ」は続けております。
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現在のポイント147ポイントでございます。


なのに何故片付いていないのか??
ってそりゃあ、その日のノルマのために捨てたものが、
小さなおちょこだったり、カップだったり、書棚で見つけた薄い雑誌だったりするからです。

またメルカリ出品でもポイントになるからです。
購入されるまでは、在庫として抱えているからです。


つまり、あまりにちまちました作業であるからです。

そして、そのちまちました作業で精一杯だからです。

さらにはそれで良しとしている私だからです。

部屋は片付いておりませんが・・
えっへん!!!

数週間かけてとりかかっていた作業はひとつ片付きましたよ!!
編み物です。
白い綿糸が数玉あったのですが、それで孫の服を作りました。
編み物の雑誌をながめたものの、手持ちの糸や数量とほどよくマッチするものが見つからず、結局自己流で編み進めました。
もっと長くチュニック風に仕上げたかったのですが、玉数が足りず。
試着させたところ、短い丈でも可愛いじゃない??
ということで、これで仕上げることにいたしました。

(試着の日はそのまま、浜まで行ってひと遊び!)









裾にもう一段入れてピーコをつけて出来上がり!!
写真を見ればお分かりの通り、ちょっと横幅とりすぎたのです。
横幅おさえたら、もう少し丈に回せたのですが、もう・・・ほどいては編み直し、ほどいては編み直しをいいだけいたしましたので、もう!たくさん!!だったのです。




ピーコはこの時のあまりもの。(真ん中の、あまり可愛くないもの)
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浜に行けば・・・やはり・・・・

浜に行けば・・・


 いつの間にかフェードアウトしてしまったかのような「石」の記事です。


きっぱりやめたつもりはなく、不定期にでも続けてゆこうと思っていたのですが、
まあ、次から次へと書きたいものが、押し寄せてきますでしょ。


それですっかり、影を潜めてしまったのです。

そもそも、手持ちの石にタイトルと文章をつけようと思ったのは、この方のブログに出会ったからです。
コメントのやりとりの中で、石たちにタイトルを付け、自由な発想で文章を添えることを勧められたのです。
www.hanapanda.com


そして始めた『偶偶石』(たまたまいし)。記事たちは、33個にもなりました。
(タイトル・文章無しのものも、「石」に関わっていれば、カテゴリーは『偶偶石』に組み入れております。今記事もそのひとつ)

その後休眠状態になっていたのです。


さてさて、先日久しぶりの好天に喜んで、浜まで行き遊んできました。
行った場所は2年前と同じ竜宮台のあたり。

kyokoippoppo.hatenablog.com


そこからオホーツク海側に降りました。


もちのろん!
石拾いも楽しみました。

厳選した石たちをご紹介いたします。

タイトルと文章はありません。ご覧いただくだけ。

6月5日のコレクション

青と茶、2つのシーグラスも混ざっております。




おうちに持ち帰りしげしげながめる。










二つの石は工作に使用


孫はママみたいに上手にできなかったといって、ちょっぴりすねました。

みなさん!!
お気に入りの石はございましたか???






石拾い楽しかった。
ただね、
集めた石たちどうしよう。
・・・・・
いつか浜に返してやろう。
そしたらきっと
別の石を持ち帰るに違いない私だけど・・。

暴風発!⇒頭痛騒動経由⇒防風着!

暴風

 6月4日金曜日は、すさまじい風が一日中吹いていました。
勤務している小学校の庭の白樺が、根元からへし折られ倒れました。




「これは尋常でない!」
ということで、急遽お迎え下校に変更。
慌ただしい週末となりました。
(新聞記事は翌朝の地方版)

その風の中を歩いて帰宅。
ほっと一息。






貴重な週末時間が始まったわけですが、程なく娘からTELが。
腸炎なのか解らぬが、とにかく気持ちが悪い☠️吐きそうで保育所のお迎えができないと。


なにい?!
ウイルス性の胃腸炎だとしたら、孫にも伝染るのか?
そしてめぐりめぐって私にも?
あまり側には寄りたくないけど、だからって放っておけない。

色々な心配を描きながらもまずは保育所へ行き、娘の住宅へ送り届けました。

娘はベッドにおり、口も聞けないほどぐったりしていて、猛烈に頭が痛いと申します。
頭痛と吐き気?
とにかく身体が動かせない状態なのです。
しかも、それは急変という形で現れたようで、そのような状態は、私の心当たりにはありません。

このまま娘の所に孫を置いて知らんぷりはできません。
それが確定的と思えるほど、娘の状態は悪いのでした。
とりあえずは、「後でまた来るから」と、娘と孫に言いおいて、私は一旦自宅へ帰り、簡単なお泊まり支度をして住宅へ舞い戻りました。
娘を休ませて、私は孫のお相手をすることにしたのです。


 昔、私の子育て期、
自分の具合が悪かったとき、
とにかく身体を横たえたかったとき、
それでも手のかかる子どもが側に居たときの辛さを覚えていますからね。



不気味なほど動けない娘の様子に不安を感じながらも、孫の不安をかきたてないように、楽しく遊んでやりました。




娘が部屋から這い出してきました。
そしてトイレへ・・・・。


おお!
苦しそうな音が聞こえてきます。

青い顔をして娘はふらふらと再びベッドへ。



しばらくして、ようやく娘が居間にでてきました。
少し楽になったと。


改めて今日のことを聞きました。

夕方お迎えの時間間際になったら、急に肩の凝りを感じた。
重く、固く沈み込んでゆくような感じで、それと共にこめかみが痛み出した。

さらには目の奥が、痛み出し目を開けていられなくなった。

涙が出て、激しい頭痛に襲われた。

それでもお迎えだけはと車を走らせたが、駐車場で嘔吐。

車から出て歩くことができず、私に電話。

自宅へ戻るも、歩くこともできず倒れこむ。

寒気に襲われたため、這うようにしてベッドに入った。

意識が朦朧として、脳の血管とかがどうにかなったのかもしれないと不安になり、救急車を呼ぶことまで考えた。

それを聞くと、ウイルス性の胃腸炎ではなさそうです。

「頭痛」「こめかみ」「吐き気」なとで検索。



片頭痛」が起こる直前には肩こりが出ることもあり、こめかみから目のあたりがズキンズキンと心臓の拍動に合わせるように痛みます。 頭の片側だけが痛いとは限らず両側が痛むこともあり、日常生活に支障が出ることもある発作性の頭痛です。
片頭痛」の特徴は体を動かして頭の位置を変えると痛みが増幅することです。
また頭痛以外に吐き気、嘔吐、下痢などの随伴症状があり、光、音、におい、気圧や温度の変化に対し敏感になることも特徴です。


どうも、この症状に近いですね。


在宅での絵の仕事がちろほらまいこみ、そのための作業をその日もしていたとのこと。
緊張型頭痛ということも考えられますが、こちらは吐き気を伴うことはないようです。


幸い症状は軽減し、らしき原因もわかったところで、気持ちも落ち着きました。

身体の中を温めたい。
お粥を食べたいというので作ってやりました。

米からたいたとろとろのお粥。

「美味しい❗美味しい!」
10回くらいそう言っては口に運ぶ娘。


美味しく食べられれば良かった良かった。

その後はお風呂へ。
孫は、ばあばと入ると言うので、娘は滅多にないひとり風呂。

風呂場から、

「あ~~~。」

という、心からくつろぐ声が聞こえてきました。


良かった良かった。

私は退散しても大丈夫だと思いましたが、
ばあばが泊まることを、喜んでいる孫のため予定通りお泊まりしました。

でも9時にもなれば、今度は私がぐったりです。
朝5時前から起きて、休みなく家のことや仕事をして、その後このコースでしょう。
孫の相手もしてやれなくなり、おざなりに・・。
ばあばの隣で寝るつもりの孫は、つまらなくなって結局ママの布団の方へ走ってゆきました。

好天!!浜へ!!

翌日。

 娘は復活しました。
ほぼ通常通りの体調に戻ったのです。


外は本当に久しぶりの晴天。
気温も上昇しました。


浜まで行くことにしました。


浜まで行って波打ち際で遊び、石拾いを楽しみました。

浜防風を見つけては採取。

(写真はこちらから・・)
食べられる山菜 - 山菜図鑑

午後は、石を使って工作。
浜で拾った石については、別記事で明日にでも。
防風は、今晩の御飯のおかずとなりました。
酢味噌和えと天ぷらです。
美味しゅうございました。



kyokoばあさんの週末はこんな具合でした。
家の中は相変わらず片付かず!!!