しんさいニート②思わず手が止まったページ

 読んでいてページをめくる手が止まりました。

 分厚く内容豊富な本でしたのて、落ちついてゆっくり読んでいました。
 コーキ氏が、日に日に追い詰められ、「死にたい」という衝動から逃れられなくなり、苦しさのあまり母親にSOSを発した場面。

さっきからずっと死ぬことばっかり考えちゃって
自分じゃどうすることもできねぇんだよ!!
どうすればいいの!?
助けてよ母さん!!


 コーキ氏のお母さんは精神科の病院に検査技師として働いておりました。
鬱を患った夫を妻として支えた経験も持っています。
 この方は、息子の発信をどう受けとるのだろう?
我が子からの、こんな痛々しい叫び声を聞き、いったいどうなってしまうのだろう?
心がざわつき、一旦本を置いたのです。
気持ちを仕切り直し、改めて読もうと思い、あえて次のページをめくりませんでした。
その時の私は主人公ではなく完全に「母親」の方へ感情移入してしまい、視点がそちらへ移ったのです。

 明朝(私、朝は5時起床。出勤前に家事と趣味の時間を持つのです。)
呼吸を整えて、姿勢まで正してページをめくりました。

 ちょっと肩透かしでした。
第一声が「仕事には行けそうなの?」だったのです。・・・・
(気持ちはわかる!!十分に!!   しかし何というかちょっと想像していたものと違った。)

 精神障害というものを理解しているゆえの落ち着きなのかもしれません。相手に飲み込まれないための、お母さんなりの必死の反応だったのかもしれません。
 また、コーキ氏の視点で描かれていることを思えば、この描写では伝えきれないお母さんの思いがあったのかもしれません。

 お母さんが伝えたことは間違ってはいません。
「仕事が休める時に病院へ行きなさい。」
「私にはどうにもできないよ。」
そう、親が病を治すことはできません。
でも、この正論はコーキ氏を深く傷付けました。

ボクが求めていたのは医療人としての言葉ではなく
ボクを産み育てた母親としてのもっと別な言葉だった
母さんにどんな言葉をかけてもらえればボクが満足したのかはわからないが
彼女が医療にボクを丸投げしたことは彼女の負うべき責任を放棄し
ボクを見捨てたように感じられ深く傷ついた

 コーキ氏は、受診に躊躇のあったメンタルクリニックへようやく足を向けました。

医者は事務的に話を聞き、事務的に投薬しました。

効いてんのか全然わかんねえな・・・

 薬が、弱かったためか、合わなかったためかは
わかりません。
いや、ドクター(人)と合わなかったのでしょうね
この場合。

 そもそも彼の生き辛さには、明確な原因があり、そこに手をつけない限りは解決しないものだったのです。
 コーキ氏はその正体に気づいていました。
幼少期に父親から受けた「箱詰め教育」が、今だに自分を苦しめていることを。

肯定されずに育つことが、人を無気力にする。

否定され続けると、失敗を恐れるという反応しか生み出さない。

 叱責ばかりで、子どもの有り様を認めない親に育てられると。「叱られないこと」が生活の価値基準になります。その時点で、子どもは自分の人生を手放しているのです。
みずみずしい感情の発露はせき止められ枯渇します。そしてその影響はその人の内部に留まり、きちんと向き合い手当てをしない限り、ずっと付きまとい苦しめるのです。明確な生き辛さとして現れたり、加害の連鎖として現れたり、様々なものへの依存として現れたりするのです。
 幼少期のこのような仕打ちは、家庭内の躾という形、教育という姿で行わることも多いのです。
そのような場合、親は我が子を傷つけていることに無自覚です。


 コーキ氏にとって、威圧的な脅威であった父親から子どもを守ろうとしなかった母親も、共犯者でした。

 息子の電話を受けた後、コーキ氏の母親は、様子を心配し上京するのですがコーキ氏の気持ちは複雑でした。共犯者に救いを求める構図に違和感を持ってしまうのです。

 さて、コーキ氏は医療に頼ることをやめ、カウンセリングを受け始めることになりました。

 この、カウンセラーがなんとも素晴らしい方でした。

 慎重に選んだとはいえ、スマホ検索という甚だ賭けに近いチョイスでしたのに、運命的な出会いに繋がったのです。
 カウンセラー芥川氏と出会わなかったら、漫画家としてのコーキさんは存在しません。
もしかしたら彼自身の存在すら危ぶまれたかもしれません。
https://sinri-casework.com/blog/shinsai-neet.html
 コーキ氏は芥川氏とのカウンセリングを重ねる中で、自分の中の混乱を整理し、少しずつ立直っていきました。  


 私は?と言いますと、躾という名前のコントロールがあることを、次男の子育ての悩みを通して知りました。
kyokoippoppo.hatenablog.com


しかし、それを知識として得ただけで、理想の子育てが可能になるわけではありませんでした。
私たち夫婦の子育てが子どもにとって良いもの、健やかものであったか?と自問すると、とても自信がありません。
多くの、失敗や混乱がありました。

 今、成人を過ぎ中年期に入るというのに、我が子たちはそれぞれ、生きることに苦しんでおります。
幼少期の影響が潜んでいることを認めない訳にはいきません。

 幸い「死にたい」ともらす子はいないけど、三人の生き方を傍らで見るしかない私はやはり、コーキ氏のお母さんのように言うしかないようです。
「私にどうすることもできないよ。」
そこに、「ごめんね。」を添えて。