なぜ勉強しなければならないのですか?

  何故勉強するの?

 まずはお読み下さい。

・・・現に経済合理性を動機づけにして子どもを学習に導き入れようとする大人がいます。

「そうそうそうなのさ。そんなのばっかり!」
・・・・・・・・・私の心の声

 私は、続く文章に期待を寄せて読み進みます。

・・・彼らは「勉強すると、これこれこういう『いいこと』があるんだよ」という言い方で子どもたちを功利的に誘導しようとする。勉強すると「いい学校」にはいれるし、「尊敬されるポスト」に就けるし、「高い給料」が取れるし、「レベルの高い異性」を配偶者に迎えることがてきる、というような説明をする。そういう大人がいるというより、今ではもう教師たちも親たちもほとんどがそういう説明に逃げてしまう。

「まさしく!でも・・・
 私は、私は、そんな説明しませんでしたよ!」

・・・・・・勢いづく心の声。

子どもに、「何故学ぶ必要があるのか?」と問いかけられて驚愕のあまり絶句するという、まっとうな教師、まっとうな親の方がむしろ少数派でしょう。

・・・・・・・驚愕はしませんが。

 そういう問いかけそのものが「想定外」なのだというところから始めたならば、「教育とは何か?」
という根本的な問題に大人たちも子どもたちも向かうことになったのでしょう。しかし、残念ながら現状はそうなってはいません。大人たちもまた「そのような問いかけはあってしかるべきだし、その問いに対して、子どもたちにもわかるような答えがなければならない」と考えている。これか最初の、最大の「ボタンのかけ違え」だと僕は思っています。(太字はkyokoによる)
答えることのできない問いには答えなくてよいのです。

「・・・・・・答がないところに本質があるということかな?『ネガティブ・ケイパビリティ』に通ずるものがありそうな。」
kyokoippoppo.hatenablog.com

 さて、そのように主張する「僕」=著者は、内田 樹氏です。
下流志向』

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

 出版されてから、10年以上経ちましたのでここで語られていることが、現在の状況と重ならないこともありましょうが、上記に引用した言葉は今も有効だと感じます。

「何故勉強しなければ、ならない?」
「何の役に立つ?」という子どもから寄せられる問いかけに、「答える必要は無い」と、内田氏は断言します。
 子どもから寄せられるそのような問いは、いっぱしの消費者としての立場を早々獲得した者からの、‘’着席して、苦痛な時間を耐える‘’に価する(等価の)サービスを引き出そうとするかけひきてある、と言うのです。

今の暮らしの中で

子どもたちは就学以前に消費主体としてすでに自己を確立している

 そのように内田氏は述べています。そんな子どもたちが、
「僕たちが強いられる学習で、いったい何が買えるんだい?」
とあたり前のように問い、大人は前述の、
「より上流のポジションに就くための、または下流に流されないためのツールである。」
という答えを提示する。
そして、そのことにためらいを持つ人は、少ないのです。

 内田氏は、この問いに答えるという姿勢そのものが間違えであると主張するのですが、それは、そもそも学ぶことによる成果は、品物の等価交換と同列に扱ってはならないという考えからです。

 つまり、学ぶことの意味とやらを、子どもにも分かるような言葉に変えて、「商品パッケージ」にして与えてはならぬと伝えたいのです。

・・・・・私も、そう思います。

 なら、教育とは本来どのようなものか?

 それに対して、内田氏は次のように述べています。

学びとは、学ぶ前には知られていなかった度量衡によって、学びの意味や意義が事後的に考慮される、そのようなダイナミックなプロセスのことです。学び始めたときと、学んでいる途中と、学び終わったときでは学びの主体そのものが別の人間である、というのが学びのプロセスに身を投じた主体の運命なのです。(太字はkyokoによる)

私はここで、「おお!」と声をあげそうになるのです。

 林竹二氏の言葉と重なるからです。

www.otani.ac.jp
林竹二はすでに故人ですが、その考え方と実践において、私が大変に感銘をを受け、尊敬している人です。
 林氏は、
「学んだことの証はただ一つで、何かが変わることである。」
という持論をもっており、実際にそういう授業を数多く行ってきた方なのです。

学ぶこと変わること―写真集・教育の再生をもとめて (1978年)

学ぶこと変わること―写真集・教育の再生をもとめて (1978年)

授業の中の子どもたち (1976年)

授業の中の子どもたち (1976年)


 内田樹氏の言葉と、見事に重なったことに、驚きワクワクした私です。
(林竹二については、後日別ブログで書きたいです。)

 さて、私は短大卒業前の19歳のとき、林竹二の存在を知りました。それ以来、林氏の言葉を宝物のように大事にしてきました。
 学ぶということは、レベルの高い学校に進むためのツールとしてあるのではないと考えてきました。テストの点に現れるものが学びの本質ではないと感じてきました。
 ですから、内田氏の主張にも、いちいち賛同し、前述のように、心の声をあげていたわけです。

読みたくない記述

 しかし、自分が携えてきた‘’教育に対する考え方‘’を、内田氏に承認されたように感じ、さらにそれが林竹二の教育論にも通ずることに心強く感じたのも束の間、私は、恐れ、できれば見たくない記述にも出くわしたのです。

パイプラインに亀裂が入っているときに、(※捕捉・努力に見合う出口が用意されてない不完全なパイプという意味)それでもなお学習努力を続けられる子どもと、学習努力を放棄してしまう子どもの間にはあきらかな学力差がつきます。そしてリスク社会では入力におけるわずかな差が、巨大な出力差として現れる可能性が高い。(補足はkyokoによる)

 リスク社会におけるリスクは社会成員に均等に分配されているわけてはなく、階層ごとにリスクの濃淡があるのです。そして、自分たちが生きているのは努力と成果が相関しないリスク社会であるということを認め、それゆえ「努力しても仕方ない」という結論を出しているのは、いちばん多くのリスクをかぶっている階層なのです。
 まことに逆説的なことではあるけれど、このリスク社会における生存競争において有利な位置を占めているのは、僕たちの社会が必ずしも報われないリスク社会であるという基礎的事実に逆らって、依然として努力している人々なのです。

 
 経済合理性を疑うことなく、子どもに努力をさせる親の方が、我が子をより良い階層に導ける可能性が大きいということ?

・・・・・・そりゃ、そうだ。確かにそうなのですが、
そういう努力をさせてこなかったという自覚がある私は、ここで情けなくもうろたえるのです。

 とっくにそうなってしまった「ボタンのかけ違い」を、個人がどうにかできるものでもなし、
林竹二氏の言葉を理想として携えてきたからといって、あくまでそれは私の理想。我が子にそのまま手渡せるものではないのです。
結局私がしたことといえば、
 自分が、テストの結果で親にしかられるのがつらかったから、それを我が子にはしませんでしたっていうだけ。
kyokoippoppo.hatenablog.com


 それだもの、勉強に苦手意識をもった、あまり勉強しない子どもたちが出来上がるのは当然だったと言えましょう。
(次男は学習で苦労しなかったけれど、素行が・・・・・)
 私のやったこととやらなかったことの良し悪しを、性急に色分けすることは避けたいと思っておりますが、それぞれ、苦労して生きている子どもたちの様子を見ると私は申し訳ない気持ちになるのです。

 とはいえ、苦労を背負わず生きている人などいるでしょうか?幸せは、上流の階層にしかないのでしょうか?
 どうあれ我が子たちは、その育ちの中で得た体験を携えて自分の人生を生きていくしかありません。


頑張っておくれ我が子たち。
そして、生きることに苦労している人たち。
その苦労を糧にして、一日一日を越えていけますように。

2019年3月の追記

 この方の「降りてゆくブログ」の読者です。
「回復」「教育」「対話」などをテーマに書いていらっしゃり、私は「林竹二」のキーワードでつながることができました。
この発信は、私にとって新鮮なメッセージとなりました。埋もれてしまうことのないよう、貼り付けておきましょう。
kurahate22.hatenablog.com