急ぎ旅ではないけれど、忙しい日々

連休だあ!

 北国の桜が平年より早く咲きました。
庭の水仙もさかりです。f:id:kyokoippoppo:20180505161902j:plain:w200:right

 さて、連休を利用して、娘と孫がやってきております。
なんとも忙しい😞💦
そんな中、在庫の布で孫用の服を作り始めたりして
ますます あれもこれもという気持ちになり気忙しい。
 今は、5月4日午前5時半。
皆が起きるまでの貴重な時間です。

 ブログは
「子ども やがて悲しき50年」

を参考にして、戦後50年間の世の中の動きと教育について綴り始めています。
先に進めていきましょう。

Ⅱ 衝突する10年

 正田美智子さんは、皇太子妃となって馬車に揺られて歓呼の声を浴び、樺美智子さんは、反安保闘争の巨大な人間の渦の真ん中で慘死。「二人の美智子さん」が描く時代の対照。教育諸法案をめぐって衆院強行採決。教員の勤務評定をめぐって日教組が長期闘争に突入。三井三池炭鉱の大規模解雇闘争。東京、山谷、大阪、釜ヶ崎の暴動・・・・激しい日々が続くなか、時代は曲がり角を迎える。

 1950年代半ばからの10年については「衝突する10年」という見出しで、上記のように説明されています。

1956年・・・教育委員が、公選制から任命制に変わった。
 これが大きな転換点になっています。
つまり、地域の学校のありかたを論ずる立場の人を選ぶ際、住民の民意ではなくその地域の長たる人が決めてしまえるということ。
 地域独自のものを認め、任せるありかたから,
国、県、自治体という縦の統制を行き渡らせるありかたに変わってきたのです。

 追って導入された勤務評定の制度。
これは職員の勤務態度や能力などを校長が評価するもの。一人の人間の好みやさじ加減で評価されるおそれもあり、その下で働く教職員を萎縮させ、団結力をそぐものとして、大きな反対運動に発展したのです。
勤評不提出という形で、抗議の気持ちを表明した校長もいたそうです。

 特に、高校の無試験全入制度をとっていた高知県は、地域の独自色を否定するこれらの制度に、中学生高校生自らが反対行動をもって抗議しました。現場の教職員はもとより、保護者もハチマキを巻き、この運動に連動しています。

 勤評不提出で、処分された校長を守るための、抗議の座り込みの一方で、代わりにやってきた新校長の赴任阻止するスクラムが組まれます。
‘’国家対それに対抗する民衆‘’という図式が、ありありと見てとれます。
すごい熱気です。

 私はこのような闘争を、手放しで良しと、肯定できません。特に若い子どもたちが‘’闘う‘’というやり方に身を任せてしまうことに対しては、やはり危惧を感じてしまいます。

それでも、
「時代を作り変えたい。政府の勝手にはさせない。時代を作るのは私たちだ。」
という心意気を持って抵抗する人々を写しとった写真は、強い魅力を放っております。


 日教組の封じ込め案としての勤評の導入、さらに廃案にはなりましたが、警察官職務執行法を改正しようした思惑など、時の総理岸信介の姿勢に対し国民は、再び国が人民を統制し、民主化の息吹を弱めようとする狙いを感じとっていました。
岸総理は日米安全保障条約改定にも意欲を見せておりました。

1960年5月・・・岸総理訪米。アイゼンハワー大統領と会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日を合意した。野党の反対を受けこの承認は紛糾。内閣は野党を除外してこれを強行採決

政府の強行姿勢を受けて、反対運動が激化しました。
その規模は国会議事堂を万単位の国民が取り囲んでしまうほどの規模だったといわれています。
国民感情としては、条文の文面への反発というよりは、強行採決で押し切る岸内閣の姿勢への反発という要素が強かったようです。
米ソの冷戦状況の中、アメリカの後方支援を請け負うことは、当時の脅威であるソ連を敵に回すことであり、それによって平和が脅かされるのではないか?という恐れもあったようです。

1960年6月・・・・・機動隊と国会正門前で大規模に国会内に突入してきたデモ隊が衝突。参加していた東京大学生の樺美智子さんが圧死。
条約は参議院の議決がないまま自然成立。岸内閣は混乱を収拾するため、責任を取る形で総辞職を表明。

 空前の盛り上がりをみせたこの抗議行動は60年安保闘争と呼ばれています。岸首相という人物とその政治手法に対する反感により支えられた倒閣運動という性格が強かったこの運動は岸内閣退陣によって急激に退潮したということです。


 本日は連休最終日。何とか書き上げて公開!