消された学校

巨摩中教育

 さて、続きです。
巨摩中学校のことでしたね。
前回のブログで、続きは次回と書きましたが、
この学校での実践をブログで伝えきるということは、不可能だなあと感じております。
kyokoippoppo.hatenablog.com


⚫教師によって作り出された自主教材で学ぶ⚫生徒のレポートがテスト替わり⚫芸術教育が重視される⚫生活綴方的な視点の実践である⚫合唱が素晴らしい!

 断片だけを列記しても伝わらないとは思うものの、詳しく理論的に、となるとこれは私の能力を越えてしまう。
まずは、
『地方公立校でも「楽園」だった』
のページより、
 75年の毎日新聞紙の巨摩中の教育を紹介している部分を引用してみます。

 巨摩中の教育は、音楽、美術、演劇などに力を入れ、さらに全教師集団による各教科の授業研究などによって、全校的にきわめて質の高い教育を行っていることで全国の教育関係者から高い評価を受けている。いまはほとんどすへての中学校が受験体制をとっているとき、巨摩中は受験体制をとっていない。ほかの地方ではテストとテストの合間に授業をやるといったテスト体制をとってあるとき、巨摩中はテストをやる暇があれば授業をやるとして定期試験がない。ほかの中学校では生徒の半数が授業について行けないといわれているとき、一人々々の子どもを大事にする巨摩中には、‘’落ちこぼれ‘’がいない。その結果、巨摩中の高校進学率は、かえって近隣の中学校のトップだという。

 このような学校だったのてすが、もちろん一気にこのような成果が生まれた訳ではなく、そこには先生方のたゆまぬ研究があり、すへては生徒のためにという思いの一致があり、また、それに応えた子どもたちの存在がありました。
中でも、久保島信保という先生が中心的な役割を担い、研究を推進しました。
詳しい実践は、彼が記した
『ぼくたちの学校革命』で知ることがてきます。
皮肉なことに後にこの本の存在が、久保島教諭と巨摩中にマイナスに働くことになるのですが。

公開研究会・・直前の中止

 前述の毎日新聞紙の、記事には続きがあります。

巨摩中とは、いまどきの中学校としてはこういう‘’風変わりな‘’学校だから、篠原校長もいうように地元の人から理解されにくいのかもしれない。

                    
 (太字はkyokoによる)
 校長は、そんな我が校を誇らずに、地元の人から理解が得られないと憂慮しているようだと結ばれております。

 この年、これまで全国から多くの人が訪れ、熱い視線を注がれた「公開研究会」が急遽中止となったのです。
毎日新聞の記事はそのことを取り上げたもので、中止の職務命令を出した校長の弁から、「理解されづらい」というあいまいで、苦し紛れのような一言が発せられたということなのでしょう。

 しかし、それまでの12回の公開研は町も予算を組み、協力体制のもと脈々と続いてきたのです。

 たしかに巨摩中以外の近隣の中学校の先生方や生徒、その親たちはこのような、突飛なやり方で成果を上げる巨摩中の存在を、手放しでは称賛しなかったかもしれません。
ここが、際立つほど、自分たちの実践や実態が、おとしめられるように感じたとしても不思議ではありません。もし、ワタシがその立場ならそう感じるでしょう。

 でも、そんなやっかみだけが原因で、プログラムも出来上がり案内状も発送し終わり、間近に迫った計画が中止になることはあり得ません。
校長だって、直前の中止という混乱を望むわけはなかったと思います。
実は、町の行政側(教育委員会)や議員から圧力がかかった結果の出来事だったのです。

 75年・・・・この年は『地方公立校でも「楽園」だった』の著者である、川村美紀さんが、入学した年でした。統一地方選挙の年であり、町では町長と町議のダブル選となり、感情的な対立が表面化し、陰湿てドロドロとした様相を呈していたのです。

町長選に立候補した三人は、いずれも保守系無所属と、いわば同族ばかりなのだから、元よりたいした政策上の論争などあるばすがない。町の現状についていろいろ意見が飛び交うなかで、「巨摩中は、よそと違う教育をしている」という声があり、巨摩中が議論の的となってしまった。現職町長のブレーンが教育委員で、言ってみれば斎藤町長も巨摩中を育てる側ということになる。となると、名執は、巨摩中のこともおもしろくない。さまざまに噂が立つ学校だから、そのことを選挙で取り上げて、巨摩中の「正常化」を選挙のスローガンにしてしまったのだ。
 結果は反巨摩中派の辛勝に終わった。これを契機に、じわじわと巨摩中への圧力がかかりはじめることになる。

『地方公立校でも「楽園」だった』より

 もちろん、個性色の強い公立学校の是非はもともとあったことでしょう。辛勝とはいえ、選挙の結果は民意ととるべきでしょう。しかし、選挙で取り沙汰された正常化、イコール学校の有り様を全否定することではないはずです。
 また、ここの教育を否定するにしても、ここで行われていることを知らずしては成り立たないと思います。
そもそも、教育は子どもたちのためにあるものです。子どもたちが喜びをもって学び、いきいきと活動する場所を、変えてゆくのならそれ相応の理由なり、ビジョンが必要です。

 川村美紀氏の本を読む限り、そのようなビジョンはかけらもなく、ただ、始めからここが気に入らない、ここのやり方は容認てきない、の一点張りで、この直前の公開研究の中止もしかりですが、乱暴なやり方で、学校を潰していったのです。

 この学校の実践の要ともいえる「自主教材」の使用は、教科書無視ととらえられました。
久保島教諭(前年度74年度末に意に添わぬ異動をさせられております。)による書籍『僕たちの学校革命』の革命の言葉が取り沙汰されたりもしました。
この年(1975年)甲子園出場の快挙をなした、巨摩高校の野球部レギュラーに、巨摩中出身者がいないではないか!ということさえ、マイナス材料にされました。
(部員はいたのですが、レギュラーでは、なかったのですね。)

さらには巨摩中の教職員はアカだという根も葉もない決めつけのもとに事が進んでゆきました。
また、今では当たり前になっている家庭科の男女共修ですが、巨摩で先駆けて行っていたこの共修、けしからん!と指摘されたのでした。
(中学校では1993年に男女必修化となっている)

 ‘’巨摩中の正常化‘’のために教師の入れ替えが3年間をかけて行われました。75年春(74年度末)には長くここの教育を牽引してきた、久保島教諭が去っており、75年度末には7名、次の年には5名の教師が、意に反して異動させられました。
 残るは在任年数の浅い教師と、教育委員会の配慮によって転任してきた「巨摩中をつぶす」という意志をもった教師たちでした。

全職員が入れ替わった1977年には、校舎も鉄筋3階建てとなり、校名も白根巨摩中学校と改められ、全国の教師たちが熱い視線を注いでいた巨摩中学校は、跡形もなく消し去られてしまった。

           フォト・ルポルタージュ『子どもやがて悲しき50年』より

 全国での中学校で落ちこぼれや非行が取り沙汰されるなか、子どもたちが、とにかく楽しい!という思いで学び、成果もあげ、また多くの学校関係者が注目した学校でしたのに。
その、価値を知ろうとし、いくらかでも真摯に向き合おうとすれば、山梨の宝にもなっただろうに。
公立校として偏っている実践があったとしても、話し合い、譲歩し合うことで何らかの改善策は見つかったかもしれないのに。

まるで、ゴミを処分するように、この宝物を手放してしまつたとは・・・・。
残念でなりません。

日本テレビから放送された「ドキュメント'82『学校が消えた』」では、「昭和四十年度卒業生一同」が記念に贈った石碑「この門の内で真実を学び仲間を得た」が石塊となって新校舎の縁の下から探し出される光景が映し出された。

「子ども やがて悲しき50年」より 

 今回話題にした出来事は過去のものです。
『地方公立校でも「楽園」だった』も、
『ぼくたちの学校革命』も絶版になっている気配が濃厚。(しっかり確かめてはおりません。あしからず)
でも、「教育」を考えるとき、巨摩中の精神は時代を越え、示唆を与えてくれると思うのです。
学ぶとは、どういうことか?
学校は誰のためのものか?
"子どもたちが、楽しくてたまらないと感じる学校の実現は不可能ではない"という真実を、私は胸に刻んでおきたいのです。
コメントに従い
かつての生徒たちの合唱のホームページ載せたのですが、うまく貼れたかな???

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