長浜功氏
長浜功氏は先に書いたブログ『地方公立校でも「楽園」だった』の著者である川村美紀氏が、東京学芸大学 大学院で学んだ教授です
長浜氏は戦後の優れた教育として、
・無着成恭の生活綴方教育(山びこ学校)
・山梨の巨摩中学校
・東井義雄の実践
を挙げました。
長浜氏は、教育は生活と直結していなければならないと考えているようです。
生活の中にある困難を見つめ、考え、より良くしていくものとして、教育を活用するべきだと考えておられます。
そのため、生活を丹念に見つめて書く「生活綴方」の手法を高く評価しました。https://search.yahoo.co.jp/amp/s/gamp.ameblo.jp/sophiainu/entry11485810442.html%3Fusqp%3Dmq331AQECAEoAQ%253D%253Dsearch.yahoo.co.jp
何故書くのか?
では、何故‘’書く‘’という手法にこだわるのでしょうか?
それはきっと、「生活を書く」→「書くという行為を通してさらにしっかりと生活を見つめる」という相互作用が成り立っからではないでしょうか?
ブログを書くことも同様で、書くことは話すことより労力がいりますし、音声と違って残るわけですから、書いたり、それを読みなおしたりする過程で、自分の思いや考えを整理できます。
‘’話す‘’より、発したものに対する責任感も大きいと感じます。
(そのような責任感と無縁で発信する人もいて、問題になることがあるのは残念ですが。)
生活綴方という方法こそは、わが国が生んだ最も学問的な教育学の最大の成果であるというわたしの結論は今後も変わることはない。
長浜氏はこのように述べております。
『地方公立校でも「楽園」だった』より。
「貧困と正面から向き合えば、利益を独占する資本主義社会体制に矛先が向かうだろう。」とも。
つまり教育や教員は、そのような体制と対峙する覚悟無しにはできないものであり、またそうあることこそが、その試練に耐えうるものであることが、教育の価値であると捉えているのです。
・・・となれば、山梨の巨摩中教育が、実際どんなに素晴らししく、そこで子どもたちが生き生きと学んでいたとしても、教員たちの眼差しが、体制側ではなく子どもたちにのみ注がれていた状況こそが、けしからんかったのであって、それが偏りとか反体制とかいう批判を引き出す要素になってしまったのでしよう。
そもそも教育は誰のものか?という問い
それにしても、長浜氏の指した「貧困」とはいつのいかなる状況なのだ?とチラリと思ったりもするのです。
「無着成恭の「山びこ学校」って 昔の、東北の、寒村での実践てしょう?」
それを如何に評価したところで、現在の日本の、地域差が見えにくくなり、子どもが、親の労働や生活と密接な関わりを持ちにくい現実の中で、生活を綴る実践の方法や方向性を見定めることは難しいと感じます。
しかし今再び、「貧困」は世相を表すキーワードとなっています。
それなのに「教育」が、そこに立ち向かう力をもっていると感じられません。
教育までもが、もう「勝ち組」の持ち物になってしまい、貧しいものは、親の教育に対する意識も低いことが多く、子どもは学習内容の理解が難しく、どんどん置いていかれ、努力が足りないといわれ、将来は満足な生活をするに足る給料ももらえない・・・・そんな図式が簡単に描けてしまうような状況です。
そもそもが、学校教育は従順な社会の働き手を養成するためのものなのだという事実(意見)に抗わなければ、
従順に学び、努力し、よりハイレベルな学校へ、よりハイレベルな集団の中へ、と導かれる精鋭は、世界相手の競争力のために必要とされる一方、派遣に甘んじ、労働力の調整弁として働く一定数だって必要とされるのてす。
教育のキーワードば、さしずめ「点数」「競争」「従順」ということに落ち着いてしまう。
貧困は、自己責任の結果としておく方が、収まりが良いというのが実情ではないでしょうか。
「楽しさ」や「幸せ」が優先される仕組みがそもそもないのかもしれません。
個々の先生方がそれを願っていても、実現しにくい仕組みがもう学校の中に組み込まれているのかもしれません。
kyokoippoppo.hatenablog.com
私とて毎日「小学校」という場所へ行き。何をしてうるかといえば、「がんばんなさい。」だの、「もっとていねいに。」だの「練習しないからだよ。」
「静かにしなさい」だのと言って給料貰っているのです。
私は支援員という立場で、子どもたちは「せんせい」と呼んでくれるけど、自身はお手伝いおばさんだと思っています。それにしても、だれの何を手伝っているのかな?
林竹二は、1960年代の行われた全国学力一斉テストをきっかけとして、いっきに点数信仰がはびこり教育現場は‘‘水俣の海‘‘になった。
と言っております。
私は、このごろの学校の子どもたちをとれえている自殺や、いわゆる‘‘非行‘‘はチッソの排水による濃度汚染の当然の当然の結果としてでてきたことと同じである。つまり、学校が教育の場であることをやめてしまっていることからの、当然の帰結だと考えるべきだと思うのです。点数信仰や学力万能という濃度汚染を受けて、学校は子どもたちが生きられない場所になってしまったのです
『いま授業を変えなければ子どもは救われない』より(1981年初版印刷)
- 作者: 林竹二,遠藤豊
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全国学力一斉テストは1966年の旭川学テ事件で、国による学力調査は違法の判決が出されたこともあってこの年を最後に中止となっております。ただし、この判決は1976年の最終審で覆り、1982年には一部で復活。2007年には全国の小6と中3の子どもたちに実施されるようになりました。(愛知県犬山市はおくれて2009年より参加)
2010年は抽出方式になるものの、2013年は再び全国調査に。成績上位校の校長名を公表した知事もでてきたり、公表をのぞむ声も出始め、「点数」というもののもたらす影響がじんわりと浸透していると感じます。
ameblo.jp
この調査への批判や、疑問などもありましょうが、そらが私の耳に直接入ることはまずありません。
多くの人が受け入れてしまったという感じでしょうか?
林氏がもしこの状況を知ったなら何と思うのでしょうか?
それにしても、今ころ林竹二の弁を持ち出して検討する必要などないということでしょうか?
過去の優れた実践はその時だけのものだったと考えてよいのでしょうか?
ノー!であると抗いたい気持ちも持ちながら、確信が揺らぐ私です。
ai-am.net
汚れた毒水を、毒と感じられないほど鈍感になって学校現場で働いているのは、私自身なのでしょう。