何のための教育?

管理教育

 学校というところは、少なくない人数の、まだ未熟な子どもを集めて一定時間預かるわけですから、ある程度の管理は必要なのだと思います。

 そしてその程度によっては、足りない=指導できていないと指摘されたり、
過剰=やり過ぎと言われたりするのです。

 程よいポイントが明確に定められているわけではないのでそれは、時代や、場所やその場を作る集団やリーダーによって様々な形で現れます。

 そして過去には管理のありようが、いき過ぎており、異様で異常であった時期がありました。

1970年代の後半から、90年代半ば頃の出来事です。
 『子どもやがて悲しき50年 太郎次郎社(現在の太郎次郎エディタス)
を参考にして、戦後の教育や子供のをめぐることがらについて綴っております。

フォト・ルポルタージュ 子ども やがて悲しき50年

フォト・ルポルタージュ 子ども やがて悲しき50年

 
 管理の有り様が過剰になったのには、そうなる必然あったと考えられます。

⚫ 戦後、様々な価値観がガラガラと変わる中、民主主義が声高らかに叫ばれ、教育も新しい希  望と理想のもと再出発。
⚫ 経済の発展が日本国の最優先課題となるなかで教育もそれを担う役割を負うようになりま  す。

⚫ 勤務評定反対闘争や、三井三池闘争 安保反対闘争 三里塚空港建設反対・・・若者や子  どもたちが社会に対してものをいい抵抗した時代が訪れます。

  そしてそれらはことごとく潰されてゆきました。


⚫ 闘争の果てに先鋭化した一部の若者がありました。社会と隔絶し思想を研ぎ澄ませてゆくな  かで、内部での総括やリンチが横行し、リンチ殺人、山荘立てこもり事件にまで行き着きま  した。

(パソコン画面を整えたらスマホ画面が微妙だ。これって対策あるのかしら?)

これは、反権力の闘争そのものの終着点であり、その敗北を痛切に感じさせる出来事でした。



教育界においては
未熟な若者に主導権を握らせてはいけない、
自由をはき違えさせてはいけない。
大人がコントロールしなければならない、
という流れが、加速したと考えられます。

縮こまる姿勢

管理教育を伝える『子どもやがて悲しき50年』の1ページです。
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 この写真を見てどのような印象を受けるでしょうか?

手前の少年は肩をあげ、首を縮めて階段を降りています。
その奥の少年はお年寄りのように腰を曲げております。
管理教育のはしりとなった静岡市にある小学校の光景です。

階段の上り下りにも、廊下を歩くにも、両手を後ろに組んで歩くことが課せられたというのです。
安全面から考えても大変不合理。
そして子どもの姿のなんとも哀れなこと。

この決まりは何のために定められたのか?
子どもの反乱を未然に防ぐため?
このように歩かなければならないわけがわかりません。
歩き方そのものに理由はなく、指示を守られるためだけに発案されたものなのでしょうか?
思春期にも達していない子どもたちにまで、このような管理が及んだ地域もあったのですね。

 このように手も足も出ない状況を作り出すことが、学校の使命であるかのような状態がまかり通っていたのです。
中学校や高校では理不尽な規則が作られ、頭髪や制服の厳しい点検が繰り返されました。

 それでいて、その頃の若者の有り様は、「三無主義」などと称され、その熱量の無さについて、嘆かわしいと指摘されておりました。

 一方で、 三無主義を吹き飛ばすかのような「熱中する若者」を、強制力によって作る学校もあったりして・・・何だか気持ちの悪い時代に突入です。
kyokoippoppo.hatenablog.com 

管理教育についての記事を貼り付けました。
rebuild.hateblo.jp
こちらは上記に貼った過去ブログ「嫌な場所 怖い場所」に関連するものです。
http://www.mammo.tv/column/seiji_fujii/20010618.htmlwww.mammo.tv