体育座りからたどりついた意外な境地②

先生達は子どもを見ていない

 写真集『授業の中の子どもたち』(日本放送協会出版協会)のⅢ章に、林竹二と竹内敏晴の対談が載せられています。
下記はその一部です。

竹内  つまりその一人一人に可能性があり、その一人一人が主役だということと、    そこで発せられていることばがそのまままかり通るということとは全然別だということ・・・・・。
林   だから先生達は子どもをみていないというんです。子どもの内部におきていることが 見えないばかりか、発言の内容さえもみえない。発言の回数ばっかり、量ばっかり問題に  なっている。(笑)これを私は子ども不在だというのです。
竹内  ぼくは、そういうことを言われるとだんたん学校では何をやってるかわかんなくなっ てくるけれども。(笑)

 
 現場の先生の忙しさや、追いたてられて仕事をする実情に対して理解を示しながらも、お二人は、現場の先生がいかに子どもを見ていないか、子ども不在の授業をしているかを厳しく指摘しています。

 私がこの本に出会ったのは、まだ学生の頃でした。
このような主張に接し、自分は辛辣な批判の対象にはなりたくないと、強く思いました。
また、「先生方」は対岸におり、このような先生批判に同調するのは容易だったのです。

 「先生」になった私

 そしてそんな私は、数ヵ月後には「先生」になっていました。
 もちろん、子どもをしっかり見て、一緒に考え、子どもたちが授業の中で輝くような・・・・などと理想はあったのですよ。
 しかし、現実はあまりにお粗末。
児童がうるさい、離席する、造反する、けんかをする、私はオロオロわたわた。
理想はあっという間に手の届かぬ雲の上のものとなりました。
いいだけあがいて、現実を知った三年間でした。

 林竹二の影響

 私は結婚して、北海道にやってきました。
教職にはつきませんでした。
北海道の採用試験に落ちたのです。そして再び受ける気持ちはなかったのです。

その後母親になった私。

 母親になってからの子育てや、子どもが学校に上がってからの学業との付き合わせかたに、林竹二の影響は残りました。
自分に都合の良いでたらめな解釈をしたのかもしれないと思いもしますが、それも含めて林竹二の影響といえましょう。

林竹二→三年間の教員生活→明星学園公開研見学(林氏の基調講演)→教育雑誌『ひと』との出会い→鳥山敏子→『賢二の学校』→ワークショップの体験→いっぽいっぽ通信(紙媒体の通信)

 これを「道」と言っては大げさかもしれませんが、私の興味関心はこのように繋がっており、ささやかながらも、思いや考え方はこの系統の周辺におりました。
 そして、林竹二氏や竹内敏晴氏はここにおいては要をなす人物なのです。

 お二人には体験や実践から培われた鋭い感性があり、揺るぎない思想があります。
 実践は更なる確信を導き、多くの著作物となりました。
対談は書籍化され、多くの人がその示唆に触れました。

『ことばが劈かれるとき』

ことばが劈(ひら)かれるとき (ちくま文庫)

ことばが劈(ひら)かれるとき (ちくま文庫)

ちくま文庫としては1988年に出版されておりますが、それに先立ち1975年に「思想の科学社」から出版されており、竹内氏のおそらく最初の出版物でしょう。

 難聴であったり、全く聞こえないという耳の不自由と、それに伴い話せない、伝えられないという苦しみを味わった竹内氏の体験から導き出された主張や言葉が綴られております。漫然と声を発することに慣れきってしまったからか、私の感覚があいまいなためか、理解しづらいところが多々あります。

 そもそも『ことばが劈(ひら)かれるとき』というタイトルからして、難しいではないですか。
劈は、ひらーくとは読みません。(ブログ記述にあたっては、「へき」という音読みから変換しました。)
調べたところこの漢字の意味は、「つんざく」とか、「切り裂く」というもの。
竹内氏にとっては、この文字をタイトルにあてる必然が当然あるわけです。
ところが私は本を読んでもこの必然を感じとることはできません。

 また、本書で紹介されている「話しかけのレッスン」。・・・簡単に言いますと
相手の声が自分にどう届くかを体験する。
逆に自分の声を相手に届けるということをして、話しかけるとはどういうことか?を追求する・・・このようなレッスンです。
実のあることば、質感を持ち、衝撃としてガツンと届けられることば・・・・音量のことを指しているのではないのです。
身体を切り裂くようにしてうまれ、つんざくような鋭さを持って・・・つまり劈かれることによって発せられるか?が問われるのでしよう。
・・・と解説めいたことを書きながら思います。
さて、私はこのようなことが果たして判かるのでしょうか?
・・・・・自信がありません。
竹内氏の著作の字面を真面目に追っても、感覚的に分かっていない自分を知るばかり。
自分の鈍感さを感じ、ついていけてないなあと痛感するのです。
そんな気後れがあるのです。

ことばとは<からだ>から<からだ>へ、人間の主体から主体へ働きかけていく働きの一つの形態にすぎないのだから、教師<親も>のこえが豊かで明確で、充分に子どものからだに届かなければ、子どもたちは動かないだろう。子どもの話ことばとこえの訓練は、教師の訓練から始まらねばなるまい。残念ながら、日本の現状では、貧しくやせたこえの教師がせいいっぱいカン高いこえで子どもを威圧しようとしている例が多すぎる。

(『ことばが劈かれるとき』より)
「ああ、私のことだ」とはわかるものの、そこから先には進めない。

 それでも、私にはこの系統の周辺を歩いてきたという自負のようなものがあり、このブログでいつか林竹二について書こうと思ったのも、戦後の教育史をつらつら綴っているのも、(しかも、太郎次郎社出版の書物を参考にしながら・・・・)その思いがさせていることなのでしょう。

そして、前回のブログです。
kyokoippoppo.hatenablog.com

「体育座りは、教員による無自覚な、子どものからだへのいじめなのだ。」
という竹内敏晴の意見が載せられた他者のブログを貼って、より自分のブログを体裁良く、箔をつけようという思いがありました。
ところが、検索にかかったうちこさんのブログ記事を読んで私は、はっと立ち止まることになりました。
uchikoyoga.hatenablog.com
竹内氏の見解に対して持った、彼女の違和感が述べられておりました。
体育座りについては、竹内氏以外にも、多くの整体師さんなどからも意見が寄せられており、おおむね体育座りを批判する内容でした。
そのなかにあって、うちこさんの発信は異色のものといえましょう。
しかし、どちらが正しいかという問いはもはや不用です。

この章を読んで(竹内氏の体育座りに対する見解)「ほんとだ!ひどい!」という意識に引っ張られていたかもしれない。子どもや弱者を題材にされると、特にそういう引力が働くので。本を読んでると(「寝ながら学べる構造主義内田樹)「なるほど」と思うことがたくさんあるけど、自分の感覚で疑ってみる読み方ができるくらいの冷静さは、強く気持ちを引っ張る力のある主張や弁論に出会ったときも忘れずにいたいものだ、と思いました。

()はkyokoによる補足

本当に、本当にその通りだと思います。

短絡的かもしれませんが・・・

今、次々と明るみにでてきているパワハラ問題。
もちろん強権的な態度をとり、パワーで、物事を、押しきる権力者の存在は、問題です。
しかし、パワハラ問題には必ず相手がいるということに気がつきました。

 そして、これには様々なグラディエーションがあって、
例えば、私が竹内敏晴氏の主張を理解しきれず、「私は鈍感だなあ、ついていけてないなあ。これが理解できないのは私に足りない何かがあるのだなあ」と思って、卑下したとき、もうその関係に落差が生じてしまう。
その人が言うことは正しくて、理解できないのは私の未熟さであると思うと、うちこさんのような姿勢を忘れ、自分を通さずその意見に同調してしまったりする。
それは、自分を明け渡してしまうことなのだなあと感じました。
(被害に合われた方の態度や姿勢の良し悪しを言っているのではないことを、どうぞご理解下さいね。)
パワーはそれと見えない形でも発揮されるし、受け手が勝手にその構図を作り出すことがあると気づいたのです。

最後まで読んでくださってありがとうございました。

 林竹二氏や竹内敏晴氏が、自分の体験や、たゆまぬ研鑽や実践のなかから導きだしたことを、それをしない人が理解することは難しい、いや、不可能なのかもしれません。
そのかたたちの言葉を真に学びたいのなら、まずはうちこさんのような姿勢が絶対に必要なのです。

ブログをやっていて良かったな。
やっていなかったら私はこの地点を、素通りしていたな。