意外な境地から再びぼちぼちと・・・

林竹二について書こうと思った

林竹二について書こうと思ったのです。
 そして「急ぎ旅じゃあないのだから・・」とつぶやいて、戦後の教育や子ども達を取り巻く環境などについて、つらつらと綴って参りました。
 前回は、『体育座りからたどりついた意外な境地というタイトルでした。
kyokoippoppo.hatenablog.com

その境地からの、再出発という気分です。



 前回話題にした手を後ろに組んで歩く子どもたちや、体育座りで顔を伏せた子どもたちの写真は、教育に管理が、かなりいびつな形で入ってきた頃のもの(1970~80年代)です。
中学校、高校では頭髪や制服の着用に関して細かい規制がなされました。何センチ、何ミリの単位での検査も行われました。
私も中学校時代、体操服に番号の書かれた布を貼り付けて過ごしたと記憶しています。しかしそのことを当時の管理教育と結び付けてとらえることはなく、異質な事と感じることもできませんでした。(写真は『子どもやがて悲しき50年』より)
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フォト・ルポルタージュ 子ども やがて悲しき50年

フォト・ルポルタージュ 子ども やがて悲しき50年

 林竹二が、学校を訪ねて授業を行うようになったのはそんな頃でした。(1975年より)

 授業をして林氏が確信したことは
どの子も等しくその子固有の宝物を持っているということ、そしてどの子もまちがいなく学びたがっているということです。
しかし、それを確信すればするほど、その子どもたちか過ごす「学校」という場所が、あまりに悲惨な状態であることも知るのでした。

 林氏にとって教育現場は、まるで「水俣の海」のようにうつったのです。

 さてしかし、教育現場をそれほどのたとえで言い表すほど荒廃していると感じる感覚は、いったいどれほどの人が共有できたのでしょうか?

 授業が、教師が子どもに対して行う不断の暴力であるという林氏の言葉をそのまま受け取れる教師はいったいどれほどいたでしょう。

 林氏はもちろん、当時の管理教育の有り様にも心を痛めておりました。しかし、そればかりでなく、もうすでに教室の風景として当たり前になっていた様々なものも、林氏は、教育の荒廃の元凶とみなしていたのです。

例えばテストであり、
テストでの選別であり、
先生たちの「この子は勉強ぎらいである」という決めつけであり、
「みんながたくさん発言した」といって満足することであり、
はじめから計画の立てられた整然とした授業であり・・・・。
つまりは普通の先生の一般的な授業そのものなのです。

また、よい学校や良い社会的地位を目指そうとする世間一般の志向であるのです。

私にとっての林竹二を書かなくては・・・
 私は、短大生のときこの写真集と出会い、ページをめくるたびに涙を流すほど、この世界に魅了されました。
しかし、今から思えば感情的に、上っ面でしか受け止めていなかったのだと分かります。
たかだか19歳の社会に出てもいない私の、そこが理解の限界でした。

 その後時が流れて母親になった私です。
林氏の教育観は、少なからず自分の子育てに影響を及ぼしました。
しかし、所詮「私」という限界の範囲内での悪戦苦闘に留まったのです。
 次回からはそのことと含めて書いていこうと思っております。
そう思ったのはやはり、「自分」を通して貴重な発信をした「うちこさん」のブログの影響です。uchikoyoga.hatenablog.com
いつか語ろうと思っていたことではありましたが、いつかではなく、今から!と思ったのです。