見えているものを見る

ページごとよけました

 卒業式が行われた日の午後は、すぐに着替えて消毒作業と片付けを行い、帰宅したらもう疲労困憊でした。
それでも、卒業式で味わった思いの醒めぬうちにと記事を書き上げました。
暖かいメッセージや励ましのスターをたくさんいただき、とてもうれしかった!!
ありがとうございます。

 さて、その晩、日々慌しく読まずに積まれていた新聞に手をつけました。
疲労困憊の凹んだ目で見出しを追うのが精一杯、読んでいるという状態ではありませんね。
それでも、私はある一枚に目を留め、引っ張り出したのです。
ハサミを取るために立ち上がる気力もなく、ペロンとよけただけ。

この記事です。

よけてどうする??
この先のことは考えられませんでした。


そして連休に!!
目覚ましに頼らず起きて、自由にやりたいことの優先を決められる・・・お休みの日はやはりうれしい!!
皆さんのブログをゆっくり読むことができるのも、うれしいことに数えられます。
そして、目にした「のんちさんのブログ」。
nonchi1010.hatenablog.com
私の心にもさざ波が立ちました。

連動したい!!と思いました。

見えるものを見るということ

 政治や思想に関することを書くことには、やや抵抗があります。
自分がしっかり学んではいないからです。
対外的なこと、防衛に関すること、経済に関することなどはさっぱり・・。

感情的で、皮相的な反応しかできない自分は、対抗する強い意見をぶつけられたときに持ちこたえないこともわかっております。
でも、これに関してやり過ごすことは、許されないと感じました。
私はnonchiさんの記事に対して、次のようなコメントを書きました。

昨晩、このことに関する新聞記事を切り抜きました。
切り抜いたあとどうするのか?
どうできるのか?
考えられず、眠ってしまいました。
のんちさん、A0153さんの記事を読み、私も、ささやかながら連動しよう!!と思いました。
政治の難しいことはわからない。
でも、人として何が正しく何がまちがっているのか?は難しいことではありません。
とてもわかりやすい。
それをまっすぐに見れば良いだけです。
のんちさん、ありがとね。
良い記事、貴重な記事をありがとうございます。

裸の王様が裸であると言い当てたのは、まっすぐな子どもの眼差しでした。
これだけ見えているものを、「見えない」と思うこと、見ようとしないことは間違っています。
a0153.hatenablog.com


ノートに書かれた「恐い」の文字に胸が締め付けられます。
赤木さんは一人で悩み苦しみ、ご自分の塗炭の苦しみと戦いに終止符を打たれた。
ああ!!ひとりで!!
この命を「とかげのしっぽ」として、地面に打ち捨てておいて良いものでしょうか?

この命を拾い上げて、「王様は裸だ!!」と言わなければならないのではないでしょうか?

この国の王様は、裸でも恥ずかしくないようです。
”恥じる”ということを忘れておられます。
 

政治や選挙に関しては・・

 政治や選挙に関しては、なかなか言及できません。
◯◯党が良くて、◯◯党はダメなどと考える根拠も持ちません。
ただ、自民党だけが強い今の状況は大変によろしくないとは思います。
また、数合わせだけで物事が進んでいく状況もよろしくないと思います。
逆に今の野党にしても、与党を引きずり降ろすことだけに腐心して、物事を解決し、前に進む力を持たないとしたらそれも残念なことだと思います。
そして私自身は・・・・・学んでいかなければなりませんね。

安彦良和

 折しも、興味を持った「秩父事件
それに関する記事を連載しております。

 次回はいよいよ『王道の狗』の作者、安彦氏も登場させて書いてゆくつもりです。
安彦氏のインタビューや、講演記録などを読みますと、
世の中を単純に善と悪に色分けし、そこに安住することに警鐘を鳴らしておれれます。
興味のある方は開いてお読み下さいませ。
www.asahi.com
一部コピーして下記に貼ります。
学びはこのようなところにありそうです。
なんだか、頬をひっぱたかれたような気分ですがね。
理解には遠いのですがね・・。

父親の世代があれだけの戦争を経験していながら、なぜ自分たちの歴史感覚はこんなに鈍感なのだろう。だったら、歴史を問い直さなければならない。そう考えたんです。

敗戦の反動で皇国史観は否定され、天皇制や国家神道に結びついた古代神話の時代にはフタがされてしまいました。膨張主義や侵略の片棒を担いだとされたアジア主義五族協和の思想も葬られた。あれほどの人を不幸に巻き込んだ「国体」というものの正体も分からないまま。でも、日本がどこで間違ったのかを知るためには、封印してきたものにも正面から向き合うべきだと思いました。戦後に勧善懲悪のかたちで教え込まれた歴史を再構築する必要があるだろう、と。

これはいまの時代にも当てはまります。「日本が右傾化している」とか「こんなはずじゃなかった」とか言うけれど、その政治体制を国民は選挙で選び続けている。そこを見つめないと、同じ過ちを繰り返しますよ。
同じ志向の人たちで固まって、対立する人たちを決して理解しようとしない。これは右にも左にも言えることです。むしろ「リベラル」と言われている人たちにこそ、その傾向は強いんじゃないでしょうか。
国の指導者と国民を切り離し、良識を持った人間なら安倍首相なんかを支持するはずがないと思い込んで、自分たちの「正義」にあぐらをかいている面はないだろうか。「リベラル」の側にさえいれば歴史に支持されると思い込み、「民主主義は大事だ」「9条を守ろう」と主張するだけではダメなんです。
僕は安倍政権による改憲には反対だけど「9条にノーベル平和賞を」なんて思わない。アメリカに寄り添って平和を享受してきた戦後日本なんて醜い国ですよ。ベトナム戦争が典型ですが、日本はアメリカの戦争に紛れもなく加担してきた。そこを見つめないで「平和主義を守ってきた」というのは欺瞞です。

(太字はkyokoによる)

加藤多一氏

 多一氏が生田原の図書館の館長をなさっていたときに知り合い、交流を持ちました。
加藤氏の講演で聞いた次の言葉が忘れられません。
まだ車の免許を持っており、なかなかのスピードで道内を走り回っていたころ頃のエピソードです。
オービスに写真を取られ、罰金を払い、裁判所にも出向いたとのこと。
「スピード違反はハレンチ行為ではない。」
と、言ってのけたのです。
もちろん、だからといってスピード違反上等!!と言ったわけではありませんよ。
ハレンチ行為に対して恥じろ!!というメッセージでした。
今の政権のありよう・・。
これハレンチ行為ですよね。
「恥」の意識が無い!これに尽きます。

多一氏の『馬を洗って』を紹介し、かなり古い記事ですが『カムイミンタラ』という発信記事より、心に止まった多一氏の主張をコピーします。『馬を洗って』・・氏の原点といえる一冊です。

kamuimintara.net

加藤さんは、11歳(5年生)の夏までそうした天皇制教育と軍国教育をたたき込まれましたが、敗戦と同時に「あの教育はウソでした」と言って、教科書を墨でべたべた塗りつぶさせられました。

1960年代以降、こんどは経済効率と消費(浪費)を美徳とする“拝物主義”的思潮が国策として推進され、子どもの生きる場をしだいに歪めていきます。

「国家権力に利用されるのは教育の宿命さ、という人がいる。それでいいのか。“子どもの危機”に本気で国民が怒れば、道はある」(95年1月18日付・道新〈対角線〉)と加藤さんは言い、国家から子どもを取り戻したデンマークフリースクールの実践に希望の灯を見い出しながら、作品の上や講演活動などで積極的に発言行動を起こしてきました。

ところが、加藤さんは先ごろ、反戦川柳作家・鶴(つる)彬(あきら)全集を自費出版したノンフィクション作家の澤地久枝さんと会う機会があり、語り合ううちに、そのへんの心境にある変化が生じたと言います。

「以前、私は『怒らなければだめだ』と言ったが、怒っているなんていうことじゃだめだということを知りましたね。愚痴を言っても、だめです。静かに、自分がまず事実を勉強すること。時間をかけ、金もかけて、見学に行くなり、本を読むなり、人に会ったりして勉強することです。その勉強したことを、どうやって伝えるか。ささやかに、絵本や物語を通じて子どもたちに伝えたいという気持ちが、やっぱり強くなりました」と加藤さんは言います。
「その場合、教えるということでは、だめです。“いっしょに感じる”ところまでいかなければ、だめなようです」。

次の言葉は、公文書書き換え事件と、それをうやむやにしてしまった国民の有り様をずばり言い当てているように感じました。

「ところで、友人たちもそうですが、知識も実力もあり、人格円満ですばらしい人物が、いったん組織の中に入ると、おやっと思うことをやる。この国では、組織のトップのトップが責任をとらない。そして、その下の人は、どんなときでも“ノウ”を言わずに、上に任せ放しにする。有形・無形の“上からの指示”に対して、ものを考えない。“思考停止”ですよね」。
「上に盲従する人は、下に対して小天皇になりやすい。“全体”はあるけど“個”が消えるのです」。
「といいながら、現実にはそう簡単にはいきませんよ。人にわるく言われたくない―という気持ちで、これまで生きてきましたからね」
「それと、正しいことっていうのは、それだけで、うっとうしいのですよ。みんなと友達でいたい、きらわれたくない」
「その一方で、信念をつらぬくのは、ほんとうにたいへん。まわりに合わせて行動するほうが、すごくラク。(どうしようか)こういう悩みでどうしようもないとき、三浦綾子さんに相談することもありました。あの方は、個の幸福と社会正義の両方を(両方とも)追求した貴重な、すばらしい作家でしたからね。亡くなられて、がっかりだけど『大切なことでは、つらくてもゆずらないほうが…』という言葉を忘れることができません」。

(太字はkyokoによる)
多一さん!!
全く音信不通になってしまったけれど、お元気なのかしら??