長男のこと⑪・・13年前の春

 Hがニコ動に編曲作品を投稿しました。
私はこのタイミングに合わせて「長男のこと」を綴っております。
番外で綴ることもありますが、シリーズとして綴るのはこれで11記事目です。

 我が子が投稿したものを自分のブログに貼ったりするのは、はしたない行為のように感じ、始めのうちは制しておりました。
しかし、息子のことを文章で残すのに合わせて作品も紹介してやりたくなったのです。
そう・・・・親心がそんな気持ちにさせました。
www.nicovideo.jp

ポチッとしていただけたらとてもうれしい!!!!
今回はアップテンポの曲、
難しいピアノ演奏に骨を折ったという作品です。

過去記事は貼り付けません。
これまでの経緯をざっとお伝えしておきましょう。
(読者の方にとっては重複する内容です。ご容赦を・・)
興味を抱いて下さり、さらにお知りなりたいという方がおられましたら、「長男のこと」というカテゴリから入ってお読み下さいませ。

⚫中学3年生になって初めてビアノを触り、その後夢中になりました。(1999年)
⚫高校進学はせず、卒業後は近所のコンビニで働き始めました。(2000年)
⚫バイトとビデオ鑑賞とピアノの日々・・・。
始めはバンド譜のピアノパートを弾いておりましたが、『ピースメーカー』という映画(ビデオで鑑賞)がきっかけで、クラシック音楽に興味を持ちました。
⚫卒業後約一年の春、札幌で行われた『素人ピアノ自慢コンクール』に出場。(2001年)
 音楽を愛する人との新しい出会いがありました。その出会いがなければ今のHはありません。
● 札幌時計台コンサートや町の音楽発表会に出場。
⚫ピアノ教室を開く。
(2003年・・・ワンレッスン・ワンコイン方式で・・ええ!?という展開ですが、『長男のこと6話』にくわしく書いております。)
●2003年夏には、国立の音楽大学の受講生になり講義を受けました。(翌年夏にも受講したと思います。)
●2004年2月、町民音楽の広場、3月札幌のピアノ教室の発表会、同月町民芝居音楽担当での参加。アクティブだ!!
●2005年成人式には出席せず。
●2006年は町の文化センターの大ホールにて、ソロリサイタルを開いた。

 今回は、その後の2年間を綴ります。
次男のことや私のことも含まれる記事になります。

長男と次男

 H君といえば、あのピアノを弾く人・・・ってな風に言われるようになったH。

 2007年の町民芝居にも、音楽担当として関わりました。
そこで公演された『戦後開拓父の詩』は、「北の元気舞台」札幌公演でも披露されることとなり、仲間と共に札幌へ行ったり、

町のバントメンバーに入ったり、

吹奏楽の愛好家たちの練習に共に参加したり・・・・・。

ワンレッスン、ワンコインのピアノ教室も続けており、広い年齢層の方たちと交流を持つ息子でした。
町に根を伸ばしてゆく息子でした。
少しずつ和声の勉強も始め、小さな曲を作り始めておりました。

一方次男は、兄貴とは対称的な活動を展開し始めておりました。
二人は性格も対称的なのです。
地元を「うんこでしよ。」
と言って憚らず、
前年春に高校を卒業するや、颯爽と札幌へと繰り出していきました。
電気系の専門学校に在籍したものの、高校時代から夢中だったバント活動を続けてもいたのです。
2007年の正月には、
「学校で学ぶことはもはや無い。あとは付随する資格取得を残すのみ。」
学校をやめて、バント活動に専念する。
と宣言したのです。
止めることはできない勢いでした。
止められて言うことをきく性格ではないのてす。
それ以前に、私のなかに止めようという気持ちも無かったのです。
長男が高校進学をしたくないと決めたときもそうでした。
そういう子どもからの発信を、止めよう、止めなければという力強い意思が母親である私に芽生えませんでした。
その自分の有り様を今も、「いい」「わるい」で判断することはできません。


ということで、次男はとあるビジュアルバンドのメンバーとなりました。
「スタジオで・・・」
「撮影が・・・」


そんな、業界人ぽいワードを散りばめて語っていた次男の姿でした。

長男は地元に根をはりつつ生活し、
次男はあちらこちらでの活動を繰り広げ、ビジュアル系バンドファンに囲まれてゆくようになるのです。
その頃Hが洩らした言葉。
本人は忘れているでしょうか?
「Yが(里帰りで)ここに来て、会えるのは楽しみなんだけど、何だかちょっと恥ずかしい気持ちにもなるんだ。」

家を離れて、勢いよく活動するYに少々気後れを感じると洩らしたHでした。

次男の成人式

 2007年秋、長男は22歳に。
明けて2008年1月。
次男の成人式がありました。
その式典で「君が代」伴奏を頼まれたのがHです。

自分の成人式にも出なかったHですが、弟の成人式でピアノを演奏することになろうとは・・・・。

さて、Yに対して少々気後れを感じることもあるHの心境は知らぬまま、YがHに熱く語ったことが、
「家を出るべきだ!」
という言葉でした。

「一度まずは、出たらいい。」
「上手くいかなければ、戻ったって良いんだから!」
とにかく出ろ!と。
そして、その時は今の自分が住んでいるアパートをそっくり明け渡すからと。
そうなったら
自分は東京へ行くと・・・・。

そんなやりとりがあり、
Hは、根を張ったここから出て行くことを決めたのでした。
(写真は2008年のもの。町民芝居への最後の協力となりました。)

50日足らずの勤務

 その頃教育委員会の業務についていた夫が、
短期間の、期限付き教諭の仕事を薦めてきました。
やる人がいなくて困っているというのです。
期間は2007年冬休み明けの1月中旬から、年度末まで。
そんな仕事に名乗りをあげる人はいないだろうということで、免許を持つ私に「やってみないか」と・・。
私はその仕事を受けたのです。
この記事では、私のことを語るのがメインではありませんので、過去記事を貼り付けるに留めましょう。(2年前の記事です)
kyokoippoppo.hatenablog.com

とにかく
こわいこわいこわい
苦しい苦しい苦しい
見事に自分の弱点があらわになりました。
眠れず、下痢が止まらず、始終動悸がし、唾液がでなくなり、
馴染んだ景色がよそよそしく映り、
私はあっという間に壊れてゆきました。
50日足らずの勤務が、長い長いトンネルとなったのです。

夫、息子、娘、友達の支えを得ながらそのトンネルを歩む日々。
Hは札幌に出てゆく決意をしたものの、
「こんなお母さんを置いて出られないよ。」
と言い、3月末まで家に留まってくれました。
娘は朝暗いうちに出勤する私に合わせて車に乗り、高校への登校を続けました。
高校の校門前で娘と別れ、手を振る私の心は心細さに震えたものです。

13年前の春

 なんとか、年度末まで勤め上げた私。
このトンネルを抜け出たその日。
Hは家を出てゆきました。

 今記事の写真は全て、子どもたちのアルバムに貼ってあったものです。
この遠軽駅の絵は、ある方が水性ボールペンで描いたものです。
北海道新聞に掲載されたものをコピーし、これも子どもたちのアルバムに使いました。
今は高速バスという交通手段もありますが、JR遠軽駅は長らくここと札幌をつなぐ玄関口でした。
故郷を離れるとき・・・我が子たちはこの階段を上がって旅立っていったのです。
駅までの送迎をする私は、この階段を昇って姿を消す子どもの後ろ姿を様々な思いで見送ったものです。

子どもたちがここに戻るとき・・私はここの階段を昇って改札口に立ち、我が子の姿が現れるのを待つのです。

2007年春、私はHを見送りました。
中学卒業以来ずっと働き続けていたHは、
「自分のバケーションにするつもりだ!!」
と言いながら出発しました。
結局バケーションにはならず、次なる扉を開けて進んでゆくことになります。
苦しい道の始まりとなるのです。

  *    *    *

 今は2020年春
毎年この時期になると、私は2007年のこの春を思い出します。
終わった
終わった
仕事が終わった
という解放感を携えて、息子を見送ったこの日を懐かしくおもい起こすのです。
雇用期間中それどころではなく、中断していた『いっぽいっぽ通信』を私はすぐに再開させています。
次のように書いています。

私のところへもどってきたもの
 朝7時には、凍れる空気の中 車を走らせ、職場に向かっていた日々が3月末で終わりました。
その日を待って長男Hが家を出ました。札幌での生活を始めることになったのです。
何が目的って家を出ることが目的なのです。
いつも心おだやかで話相手には最適の息子が家から姿を消すのは淋しいものですが
仕事と息子がはなれていって、私の心はカランと静かになりました。
間もなく・・・・・・・
私のところへ戻ってきたもの・・それはダスキンの仕事と浜仕事です。
ありがたいことに新しい仕事も舞い込みました。

新年度のこの時期に「長男のこと11」が書けてうれしい私です。