長男のこと⑫

 『長男のこと』の12記事目です。
長男Hが、ニコニコ動画に新作をアップしました。
私はそのタイミングで息子に関わることを書いているのです。
www.nicovideo.jp

この度は、間に別記事が割り込んだため、アップ後一週間たってしまいました。

大きく貢献はできませんが、親心としていくらかでも応援してやりたいのです。
ポチっとして聴いていただけたらとてもうれしいです。


前回は、とうとう故郷から出て札幌へと拠点を移したところまで書きました。

それ以降、私は息子の暮らしを身近に見ることはなくなったわけです。

ですから、これ以降の記事は今までとはいくらか違うものになってきます。
第2章とでもいいましょうか?


 今日は、今までの総集編的な内容からスタートさせてもらいます。
新しい読者のかたもおられますので、それまでの息子のことをお伝えします。
一部を除いて過去ブログは貼りません。
詳しくお知りになりたいかたは、「長男のこと」というカテゴリーで読んでいただけましたら幸いです。

ピアノに出合って

 長男Hは中卒です。
「高校には絶対に行かなくてはだめなの?」
息子のそのひとことが、きっかけではありましたが、そこに強く連動した私の思いとの相乗効果で、高校受験しない道が作られてゆきました。
この辺りのことは、複雑な気持ちも絡むところです。下記ブログに詳しく書きました。
kyokoippoppo.hatenablog.com
学校生活における友達関係は良好だったと思います。
ただ、理解できない勉強を、また3年間椅子に座り、黒板に向かって続けなければならない、それが苦痛だったようです。

初めてピアノに触れ、その面白さに夢中になったのもその頃でして、もう頭のなかは、ピアノ一色になってしまったのです。
高校に対する魅力は全く失ってしまいました。

 春休み最終日まで友達が来て、我が家で遊んでおりました。
4月より、近所のコンビニでアルバイトを始めました。
仕事を終えると、ビデオレンタル屋でビデオを借り鑑賞する。
それに関わる本も読むようになる。

そしてピアノ。
ピアノはもう、一日に数時間でも弾いているのです。
上達しないわけがありません。

はじめは、ドレミのドの位置も分からず、音符も全く読めなかったのですよ。
kyokoippoppo.hatenablog.com

 コンビニの早番をやっていると、現場に向かう労働者のおっちゃん達がやって来て、声をかけてくれたそうです。

「あんちゃん、若いな!」
「はい、夢があるので学校行かず働いています!」
「そうか!偉いな!がんばれよ。あんちゃん。」


しかしね、

二十歳を過ぎますと、
「夢があります。」
という言葉も、おいそれとは出せなくなってきます。

その夢追えよ!
などと言ってくれる人もいないし、本人もそのようなストレートな言葉を出さなくなるものです。

大人になったH

 そう、Hは”大人”と呼ばれる年齢になったのです。
その間色々なことがありました。
その間ピアノの熱はさめることがありませんでした。

‘’同級生より先に社会に出たオレ‘’
でしたが、その同級生も進学をして土地を離れたり、地元で家業を継いだりし始めました。

弟である次男は、一足先に家を出て、ビジュアルバンドのメンバーとしてあちらこちらを飛び回るようになりました。

弟は兄に、家を出ることを強く進めました。
「とにかく一回は出るべきだよ。」
と・・・。
Hはそれに応じ、張った根っこを引き剥がすようにして地元を去り、札幌へと出て行ったのです。

「15歳から働いてきた。バケーションのつもりで行ってみる。」
そんなことを言いながら出ていったのですよ。

重圧

 バケーション気分はいつまでだったのでしょうか?
程なく作曲の道へと進むことになります。
Hは、札幌の現代音楽の作曲家M先生の門下生となったのです。
その道をつけてくれた人は、Hが初めて札幌でピアノを披露した10代の頃からの音楽仲間でした。

M先生・・・・・それにしても中卒の、どこの馬の骨ともわからん男をよくぞ拾ってくれたものてす。

教鞭を取る大学にだって、作曲を学ぶ精鋭たちがいたでしょうに。

Hは、先生のお宅へ通って個人レッスンを受けるようになりました。
ワンレッスン数千円だったと記憶しております。
貯金が心細くなってきた頃から、親がいくらか手助けしてやりました。
今までかけてやらなかった学費のつもりでね。

回数を重ねるうち、Hはあることに気づきます。
レッスンの成果が思わしくない生徒は、別の先生のところに格下げされるようだと。
‘’格下げ‘’というようなあからさまな表現をされたわけではないのかもしれませんが、そのようなニュアンスのことを伝えられ、姿を消す生徒がいるらしいことを。


 先生に丸を付けてもらう。
 課題に対して、丸をつけてもらえるようなレベルのものを提出する。

Hの心はそれで占められるようになります。
ピアノがそうだったように、何か夢中になると突き詰めるところのある息子です。
丸をもらうため。
丸をもらうため。
「夜も頭が休まらず、頭の中が音符だらけになる。」
そんな話を聞いたのはいつのことだったでしょうか?
さらに、最初のパニック障害を起こしたのはいつだったのでしょうか?
私のメモには残っておりません。

札幌に行った年、2007年のメモを見てみましょう。
(備忘録として出来事だけをメモしているのです。)

おお!8月には、ちょいとしたハプニングがありました。
これは次男のことになるのでここでは割愛します。
が・・・・・私が札幌の東警察署に出向いたとだけはご報告しておきましよう。
いずれ書く話題です。

私は、その年の9月から支援員の仕事を始めています。
同じ月、Hは時計台のコンサートホールで『ガブリエルのオーボエ』のビアノ連弾を披露しています。

翌2008年春、私の母が亡くなっておりまして、その通夜の際、葬儀場の閉所に不安を感じておりましたから・・・・・・・・

2007年の秋から冬の頃ですかね?

レッスンの重圧という素地はあったものの、引き金となった出来事は、ウィルス性の胃腸炎です。
やたら寒いなか、ガタガタ震えながら友達のオープンカーで病院に連れて行ってもらったという話を記憶しております。


まあ、2007年の寒い頃ということですね。
この話は次に回しましょうかね。

コロナの影響で、編曲依頼が全てキャンセル。
アルバイトのお仕事も同様とのこと。
少々力を落としているようです。

仕方ありません。
もう少しの辛抱です。
くさらず、自分にできることを進めるしかありませんね。

日曜ごとにアップしていた『偶偶石』の記事・・今日はお休みいたします。