民族の言葉

「まんま」から始まって

 赤ちゃんは一番しやすい「あー」や「まー」という音を出しては、見守る大人たちの反応を感じ、言葉を返されることによって単語を覚えてゆきます。
「まんま」「まま」「あっこ(抱っこ)」「っち(あっち」「やいや(いやいや)」
そうやって母語を身につけてゆきます。

 その母語を奪われることは、このように生きてきた時間そのものが否定され、その間に育まれてきた情愛までが奪われるに等しいといえましょう。
母語で語ることを禁止されても、人の内部では自分の感情や思いが「母語」で紡ぎ出されていることでしょう。
しかし、それを表出できない。
それがどんな苦しみであるか・・・・。

朝鮮語学会事件

 のんちさんが綴られた『奪っても、奪われてもならないもの』
を読んで立ち止まりました。
nonchi1010.hatenablog.com
www.youtube.com

映画を観ることは難しいので、紹介されている映画『マルモイ・ことばあつめ』は、YouTubeの予告版で観るに留まりましたが、
朝鮮語学会事件」については、ネット情報ではありますが調べてみました。


朝鮮人に日本語を使わせるために、日本統治時代の朝鮮において朝鮮語の抹殺を図った日本が1942年10月に朝鮮語学会の会員を罪に問い検挙、投獄した事件。

日本は1939年4月から朝鮮半島において学校での朝鮮語の時間を全廃し、各朝鮮語新聞、朝鮮語雑誌を徐々に廃刊にさせた。

1941年12月にハワイの真珠湾を攻撃し太平洋戦争を開始した日本は、朝鮮半島における朝鮮人の反抗を懸念し、1942年10月に朝鮮語学会の弾圧を開始した。


検挙された者は洪原の警察署の留置場で1年間拘束され、拷問を受け、治安維持法違反罪(独立運動罪)で起訴され、咸興検事局に送検された。
このほかに容疑者・証人として50人以上の関係者が尋問された。
被告に不利な証言をしなかった者は留置場に拘禁された。
これらの証人には朝鮮語学会事業に協力した著名な朝鮮の文化人が多く含まれていた。

1943年1月に李允宰が、翌1944年2月に韓澄が拷問と寒さと飢えによって獄死した。
この事件によって朝鮮語学会は解散され、朝鮮語学会で作成中だった朝鮮語辞典の原稿は、証拠物件として洪原から咸興に移送される過程でほとんどが失われた。

Wikipediaより要約。大文字はkyokoによる。)

このようなことを、日本人が行ってきたということです。
「民族の言葉」を何とか世につなぎ止めようとした人たちは、次々に獄に送られ、拷問にかけられ、劣悪な環境のなか亡くなる人さえいたのです。

ブロニスワフ・ピウスツキ

 ”民族の言葉(母語)”を使うことを禁じる・・・
日本はアイヌ民族に対してもこれを行っています。
アイヌの人たちは親から授かった自分の名前さえも、日本名に変えさせられ日本人として生きることを要求されたのです。
 ロシア帝国時代、その統治下にあったポーランド人もポーランド語を話すことを禁じられ、教育の場において、祖国の歴史を学ぶこともかないませんでした。

 ポーランド人の「ブロニスワフ・ピウスツキ」が滅びゆくアイヌ語を「蝋管録音機」を使って残そうと力を入れたのは、「母語を奪われゆく民」としての共感があったからにちがいありません。

流刑された10数年の間に樺太アイヌ、ギリヤーク、オロッコなどの写真・音声資料を多量に残した。特に蝋管は200から300本残したといわれているが、その多くは今だ行方不明である(ロシアなどで見つかる可能性はある)。現存する蝋管は、樺太アイヌ語最古の音声資料として重要である。

(Wikipediaより一部抜粋)



「日本語」をかけはしに

 
 のんちさんの記事を読んだその時に、我が家の散らかったテーブルの上には、一枚の切り抜きがありました。
8月12日の「北海道新聞」の記事です。
切り抜いたまま、「どうしよう・・」「いらんかな??」「こうやって切っては溜め込むからいかんのだよなあ・・」

そんなことを思いながらも放置していた切り抜きでした。

でも、
この切り抜きも仲間にいれて、記事を仕上げてみることにしました。

f:id:kyokoippoppo:20200817184143j:plain(写真不明瞭ですね。・・)

f:id:kyokoippoppo:20200817184157j:plain:left


紹介されているジョ・ウンギュウさん(漢字変換できなかったので片仮名で記述します)は、釜山近くで生まれています。
当時韓国は、すでに日本の統治下に置かれていました。
その後樺太に移住。
終戦時は小学5年生でした。
「もう少し日本の学校で漢字などを学びたかった。」
と振り返っておられます。
ジョさんは、韓国語に親しむ以前に日本の教育を受けており、日本語を母語のように受け入れてきたのです。

 終戦樺太旧ソ連統治下に置かれます。
日本人社会に通じていたお祖父さんは、政治犯とみなされ逮捕され、大陸の収容所へ送られそこで亡くなります。
戦後の樺太(サハリン)に、日本語によって生きる場所は残されませんでした。
ジョさんは、ロシア人社会のなかで、「平身低頭」に生きていくことになるのです。

そしてハバロスクの大学で学び、サハリンの設計会社の社長となり、彼の地で立派に身を立てたのです。

 ジョさんは、本来の母語である韓国語を習得する機会を得られず、日本語を母語のようにして学び、終戦後は、ロシアとなった地でロシア語を駆使して生きてきました。
ご家族とはロシア語で会話をするそうです。


その間、日本語を手放さないように独学で学び続けたのです。

物事を考えるときの言葉、自然に唇からこぼれる言葉は日本語だということです。
韓国語は少し使えると・・・・。

その日本語力が生き、日本からの訪問団の通訳を務めるジョさんです。


戦争によって、とうとう本来の母語を学ぶことなく生きたジョさんですが、時の統治国の言葉を受け入れ、生き抜いたジョさんの言葉に対する姿勢も立派なものだと感じました。


この記事の文末です。

サハリン在住邦人でつくる「サハリン日本人会」の白畑正義会長(80)によると、残留邦人1世約30人のうち日本語が達者に話せるのは5人以下に減った。漢字で記された本を難なく読める人はいないという。

幼い年齢で終戦を迎えた方たちは、日本語の通用しないサハリンに長く暮らしたため、ロシア語を母語として受け入れざるを得なかったということですね。

考え、つなかるための大事な「言葉」、「自分」が自分であることを支えてくれる言葉・・・。
それぞれの国や地域で育まれた言葉が、二度と侵略の犠牲になりませんように。