コルチャックとピウスツキ兄弟⑤

同じ時代に違う理想を追って生きた3人
ヤヌシュ・コルチャック
ブロニスワフ・ピウスツキ
ユゼフ・ピウスツキ
彼らの年譜を並べてみるという試みです。

ワタクシ・・歴史には興味が向いたこともなく、時代物の本は読みませんし、歴史ドラマもほとんど見ません。

なのに、こんなことをしたがるのは何故?
まずは「人」に興味が湧いたのです。
で、その人の生きた背景として歴史を辿っているわけなのです。
今回は
第一次世界大戦のあたりを綴るわけですがね。
ざっくり記せば、
この大戦中にロシア帝国は革命によって滅び、ソビエト共和国が生まれ、大戦後ポーランドは独立を果たす。
ということになるのですが、私の頭の中は簡単に「ほうほう、なるほどね。」とはなりません。

そうなるほどの知識がありません。


はてさて、革命って?一体具体的にはどんなことだったのか?
どういういきさつで、ポーランドは独立できたのか?

そんな疑問を携えて調べていきます、検索につぐ検索!!
ポーランド第一次世界大戦
ロシア革命
ポーランド独立・・・などを打ち込んで読んでみます。

複雑な史実が現れます。

そんなこんなを、調べながら記事を書き進めました。
私の自由研究ですから、読むのが苦痛だなと思ったかたは、遠慮なくスルーして下さいね。

911~12年・・・『ドム・シェロット』・・・ユダヤ人のための孤児院が完成。

前回はここまで書きました。
コルチャックは医師としての有望な将来を捨て、孤児院の運営に全力を注いでいくことにしたのです。
しかしほどなく・・・

1914年・・・第一次世界大戦始まる。

この時代は落ち着く間もなく戦争がやって来るのだなあ。

みんなの大好きなコルチャック先生は、ロシア軍の軍医として戦地に赴かなくてはなりませんでした。
コルチャック留守中の孤児院管理は、有能な同志である女性、ステファニア・ヴィルチンスカによって支えられました。
一方戦地に赴いたコルチャック。
彼の眼差し、追求する使命は変わりません。
常に子どもたちの健康を幸せを願うコルチャックは、キエフでマリナ・ロゴフスカ・ファルスカという女性と出会います。
彼女は、ポーランド人の戦争孤児のために寄宿学校施設を運営していた人でした。
この人との出会いが、後の『ナッシュ・ドム』・・ポーランド人のための孤児院設立へとつながってゆきます。

同じ頃・・ブロニスワフはヨーロッパを渡り歩いています。


1914年・・・ロシアの侵攻を怖れ、ウイーンへ脱出。
1915年4月~1917年11月・・・スイスに滞在。
         1917年11月・・・パリに到着。

時同じ1917年11月・・・レーニンが史上初の社会主義国家であるロシア・ソビエト共和国を樹立。



1917年11月にブロニスワフはパリに到着し、ロシアでは革命後の暫定政権を倒したレーニンが、ソビエト政権を樹立しています。
文献は探せませんでしたが、連動した出来事だと思うのです。
さらにブロニスワフは何を思ったか、ユゼフの政敵であるロマン・ドモフスキが組織した「ポーランド国民委員会」のパリ事務所に勤務し始めます。
ロマン・ドモフスキとユゼフは、過去の日露戦争時に、日本の支援要請についての意見が違い、激しく対立しています。(同タイトル③に記述有り)

ユゼフは「ポーランド国民委員会」が組織された際も、この動きには賛同せず、反ドイツの意志を表明したためドイツで投獄されてしまうのです。(後述)
それ程に独立への方策方針が違う、ロマン・ドモフスキとユゼフなわけですが、兄のブロニスワフは「ポーランド国民委員会」に勤務したということ。

ユゼフに連動してゆかなかった理由はよく解らず、興味の向かうところですが、
今の私はこれ以上のことは調べられませんでした。

そして、ポーランドの独立に向け、一直線の勢いで突き進むユゼフは同じ時をどのように動いていたのでしょうか?


ユゼフがロシアの輸送列車を襲うという派手な手段で金を得て、私設軍隊を作ったことは同タイトル④で書きました。


1914年・・・第一次世界大戦が勃発すると、ドイツ・オーストリアに協力して私設軍を派遣。ロシアと戦った。
私設軍隊はあくまで「ポーランド軍」であって、ドイツ軍に組み込まれないことを主張したユゼフ。
さらには、ドイツがロシアに勝ってもポーランドの独立を意図していないことが判るや反ドイツに転じたユゼフ。
その結果ドイツのマルデブルグ監獄に投獄される。

1918年 11月3日・・・ドイツ革命
      11月11日・・・・第一次世界大戦終結

前日10日にユゼフはドイツの敗戦により、出獄。ワルシャワ入りを果たす。
ポーランドは123年間に及ぶ隣国の支配から解かれ、念願の独立を果たす。
ユゼフは、国家主席兼総司令官に就任。

ロシア・ドイツの双方と戦う姿勢をみせたユゼフ・ピウスツキこそが救国の英雄と目されたのです。
 
時を少し戻し、ブロニスワフの話題に戻ります。
終戦を半年後に控えた

1918年5月・・・ブロニスワフセーヌ川に身を投げ自殺。
遺書などは残っておらず、動機は不明とのこと。
祖国ポーランドの独立を見ずして亡くなったわけですが、彼にとっての心の祖国は妻や子を残した「サハリン」であったようにも感じられます。

次回からは、ブロニスワフの記述がなくなります。
ユゼフの記述も減ってゆきそうです。


  *  *  *  *
 余談ですが、2020年のコロナウイルスに関連して話題にのぼることの多かったスペイン風邪ですが、このインフルエンザの流行は、
1918年の春から始まっています。
多くの死者を出し、第一次世界大戦の状況にも少なからず影響を及ぼしたといわれています。