同じ時代に違う理想を追って生きた3人
ヤヌシュ・コルチャック
ブロニスワフ・ピウスツキ
ユゼフ・ピウスツキ
彼らの年譜を並べてみるという試みです。
1935年までを綴ってきました。
1918年にブロニスワフは自死しており、
前回の記事の最後でユゼフも亡くなってしまったので、残るはコルチャック先生だけになってしまいました。
そのコルチャック先生も、10年後の第二次世界大戦終戦時にはこの世に残ってはいないのです。
前回の記事最後の部分を、いくらか重ねて書き、改めてスタートしたいと思います。
1935年・・・・ユゼフ・ピウスツキ死亡
ユゼフの遺体はクラクフのヴァヴェル大聖堂に、心臓は母親の遺体とともにヴィリニュスに埋葬されました。
ユゼフの死は、その後のポーランドの運命を決定づけてゆきます。
(大聖堂の写真はWikipediaより)
他民族国家を認め、ユダヤ人たちからも尊敬されていたユゼフの死はコルチャックにとっても大きな痛手となりました。
同年・・・・ナチスはユダヤ人のドイツ市民権を奪う「ニュルンベルク法」を公布。
同年・・・・コルチャックによる、子ども向けのラジオ番組「老博士のお話」が始まる。
これは、ポーランド放送からの依頼で始まりました。
ユダヤ人であるコルチャックは最後まで「コルチャック」を名乗ることなくこの仕事を行いました。
彼の話かけるようなお話のしかた、聴取者からのないしょの話への心をこめた返事、一人ひとりの心をとらえる話しぶりに、小さな子ども、若者、親、先生、たくさんの聴取者からの反響がありました。彼は自分の考えを返事にまとめ、雑誌『アンテナ』に発表、それはのちに『楽しい教育学』として出版されました。
『コルチャック先生』より
- 作者:近藤 康子
- 発売日: 1995/06/20
- メディア: 新書
(その後、ポーランド放送は再びコルチャックの出演を依頼し、コルチャックはそれを受けています。)
ポーランド人の孤児のための施設「ナッシュ・ドム」を去る。
20年に及ぶファルスカとの長く緊密な信頼関係は、彼女からの一方的な「手を引くように」という一報により断ち切れてしまいました。政治的な圧力があったと思われます。
二つのホームが姉妹校としてユダヤ人とポーランド人の子ども同士が往来し、交流する関係が終わりを告げることで、コルチャックは自分の立つべき位置を見失う思いがしたのです。
『コルチャック先生』より
1937年・・・反ユダヤ主義の高まるなか、ポーランド文芸「アカデミー」は、コルチャックに「アカデミー月桂冠」賞を与える。
ユゼフ死去から4年後・・。
1939年4月・・・ドイツはポーランドと結んだ不可侵条約を破棄。
同年8月23日、ドイツはソ連と独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)を結ぶ。
その際に両国間で交わされた秘密議定書においてポーランドの領土の分割を取り決めました。
同年9月1日・・・ドイツはポーランド侵攻を開始。
9月3日・・・イギリスとフランスがドイツに宣戦布告、
第二次世界大戦が始まる。
9月17日・・・ソ連軍が東部国境より侵攻。
マリンカの母は、コルチャックがラジオ放送を通してあの明るく、頼もしい老博士の声で市民や子どもを勇気づけ、混乱を静めようと呼びかけるのを聞きました。
「落ち着くように、危険にさいしてどうふるまうべきか、抵抗と沈着な行動をー」
砲弾の音で放送がかき消され、放送局が閉鎖されるまで、彼は市民に語りつづけました。
『コルチャック先生』より
9月28日・・・ポーランドは独ソ両国により分割占領され、再び地図の上から姿を消すこととなった。
記事を読んで下さった皆様、ありがとうございます。
たぶん次回で終了です。