コルチャックとピウスツキ兄弟 ⑧

反ユダヤ主義

 このタイトルで書くのも今回で最後?
と思っておりましたが、どうでしょうか?
当時の世の中の情勢に合わせて、コルチャック先生の最後の日々を丁寧に綴ろうとすれば、今回では仕上がらないかもしれません。

とにかく書き始めましょう。

前回は再びポーランドが分割されたところまでを書きました。
西側をドイツが、東側をソ連が支配することになったのです。

まん中のワルシャワは、総督領となりドイツの植民地のようになりました。

コルチャック先生 (岩波ジュニア新書 (256))

コルチャック先生 (岩波ジュニア新書 (256))

『コルチャック先生』文中のこのような記述を読めば、
「ソウトクフ」「ソウトクリョウ」って何だ??
どんなものだ???
と疑問が湧きます。
調べて見ましょう。
フムフム・・・。


ドイツに併合されなかった旧ポーランド領は、ポーランド総督府と呼ばれる統治機関の下に置かれた。1939年10月26日にハンス・フランクが総督に任命された。首都はクラクフで、行政区画はワルシャワ 、ルブリン、ラドムクラクフの4つに分けられる。1941年6月のソビエト侵攻後、ウクライナソビエト社会主義共和国の一部であった東ガリツィアがポーランド総督府の5つ目の領域となった。

ポーランド総督府は、純粋にドイツの統治機関で、ポーランド人から構成される傀儡政権ではなかった。
これはドイツ支配下のヨーロッパに新たなポーランド人州を作ろうとするものではなかった。1941年3月ヒトラーは、「ここを15~20年で完全なドイツ人居住地にする」と決定していた。
ヒトラーは、「4~5百万人のドイツ人に対して、1千2百万人ものポーランド人がいる。ポーランド総督府領はラインラントと同じくドイツ人のものになるべきだ」と述べている 。

1939年秋、ドイツに併合された旧ポーランド領からポーランド人がポーランド総督府領に強制移住させられ、ポーランド人にとって巨大な強制収容所の様なものとなった。
そこでは、ポーランド人の男女はドイツ第三帝国の工場や農場で強制労働を強いられた。

Wikipediaより。改行、太字、大文字はkyokoによる。)
併合されなかったポーランド領は、完全にドイツの支配下に置かれており、ゆくゆくはドイツの居住地になる土地として扱われていたのですね。

 このようなポーランド総督府の中でのポーランド人の苦悩は計り知れませんが、そこにあってのユダヤ人の立ち位置はどのようなものであったのか??
これも、つかんでおきたいところです。困ったときのWikipedia!!
記事がボリューミーになりますが、自分のためにコピペしました。

戦前、ポーランドには300万人のユダヤ人が住んでいたが、これは当時の全人口の約10%に相当する。
ポーランドは敬虔なカトリック国家であるため、この非キリスト教少数民族の存在は常に緊張の原因で、ポーランド人とユダヤ人の間で周期的に暴力の応酬があった。
戦前には社会的に広く反ユダヤ主義が存在し、時に反ユダヤ主義カトリック教会やいくつかの政党によって助長されたが、政府が直接反ユダヤ主義を唱えることはなかった。
ポーランドには反ユダヤ主義に反対する政治勢力も複数存在した。しかし1930年代後半になると、反動的な反ユダヤ主義勢力が政界で地歩を得るようになっていた。ドイツは明らかにこういったポーランド人の反ユダヤ主義的感情を利用することができた。
占領下のポーランド人の中には一旦かくまったユダヤ人をドイツ人に引き渡したり「ユダヤ人狩り」をして生計を立てたりするものがいたが、ポーランド人の大半はユダヤ人絶滅政策に協力するよりはユダヤ人をかくまうことを選んだ。
反ユダヤ主義は特に東部地域で根強かった。そこは1939年から1941年までの間ソ連が占領していた。この東部地域では、ユダヤ人はソ連に協力していたとして地元住民に非難されており、ソ連占領下でユダヤ人の共産主義者カトリック教徒のポーランド人を抑圧したり国外追放したりするのに主導的役割を果たしていたと言われていた。その結果として、復讐行為が起こり、時には無実の者が標的にされた。

ドイツ占領下ではほとんどのポーランド人は生き残るために必死だった。
ユダヤ人絶滅に反対したりそれを防ごうとしても、そういうことができる状態になかった。しかし実際は多くのポーランド人が命を賭けてユダヤ人をかくまったり、他の手段で支援した。
ユダヤ人を支援した場合、支援を提供した本人だけでなくその一家全員、時には近所の人々も全て死罪とされたのはポーランドだけである。

Wikipediaより。改行、太字、大文字はkyokoによる。)

コルチャック先生・・晩年の苦悩

占領軍が、全ての慈善活動を止めさせたため、孤児院(ドム・シェロット)は運営資金の捻出に苦慮することになりました。
コルチャックは、毎日、個人の家や福祉団体に寄付のお願いに歩かなくてはなりませんでした、
その頃のエピソードです。

占領軍のテロ行為のなかを命がけで出かけて行ったとき、ある金持ちのユダヤ人商店主は、コルチャックの求めを快く思いませんでした。「先生は、子どもたちがかわいのてしよう。それでしたら、やたらと子どもたちをよく知らない人に手放したりしないでしよう。私は私のお金がほんとうにかわいのでよ。百ズウォティ札のどれもが私の子どものようなのです。」コルチャックはしばらく考えて「あなたの親心をかき乱してしまって申し訳ありません。」と丁重に挨拶を述べて帰ろうとしました。商店主はあわてて彼を追い、「さあ、私の子ども二人を連れて行ってください。」とコルチャックが手のひらに紙幣を押し込みました。

『コルチャック先生』より



1939年・・・コルチャックは人々の善意に訴える声明を出した。

反響は大きく、その冬を乗り越えることができました。

1940年4月~5月・・・ポーランド西部ウゥチに初めてゲットーが作られる。
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 ワルシャワでのゲットー建設も着々と進められておりました。
コルチャックは、ゲットーに入ったら夏期休暇村へ行くことはもはや困難であろうと考え、子どもたちに緑と新鮮な空気、自由に走り回れる生活を贈りたいと思いました。慈善協会に手紙を書きました。
コルチャックの思いは実現します。
子どもたちにとっては、健康的な夏を味わう最後のひとときとなりました。

1940年・・・・夏季休暇村「小さなバラ」で二週間を過ごす。他のホームの子も交えての楽しい思い出作りとなった。

慈善活動が軍当局によって止められている中、コルチャックの手紙による訴えがこのようなことを実現させたのですね。

同年11月・・・・ドイツ軍当局の命令により、ゲットーへの移動。
ホームはゲットー内の学校の施設へ引っ越し。

「ナッシュ・ドム」の教員だったポーランド人のスタニスワフ・ロガルスキは、コルチャックと子どもたちが荷物を持ち、二列になって、先頭の二人がポーランド国旗を表わす赤と白の小さな横断幕を持ち、最後に「ダヴィデの星」の幕を持って、歌を歌いながらゲットーへ入っていくのを見ました。

『コルチャック先生』より

引越しは順調に進みましたが、最後に持ち込み禁止のじゃがいもを積んだトラックが見つかり、足止めをくらいます。
子どもたちの大事な食料であるじゃがいも・・。
コルチャックは警察官に抗議しました。

警察官は彼がユダヤ人だと知ると殴りつけ、政治犯の多い刑務所に入れてしまいました。
心配したホームの卒業生たちは、救出に必要な大金3千ズウォティを集めるべく奔走しました。
コルチャックは数ヶ月後にようやく釈放されます。
卒業生たちは、公務員の日給600日分に相当する程のお金を集めたでのす。

コルチャックという人物がいかに多くの人々の希望であったか
・・・それが伝わるエピソードです。

ゲットーの中での生活

 ゲットー内の環境は悲惨なものでした。
人々はなんとか生き延びようと知恵を絞るものです。
家の地下室から掘り進んだ地下道や、下水道を伝って外に出て物資を仕入れたり、金のあるものは賄賂を使い物資を仕入れたそうです。
地下道は数百以上あったといいますから驚きです。
物資を仕入れ高く売るこの仕事は命がけのものでした。
そしてこの密輸で活躍したのが身体が小さく、「ダヴィデの星」の腕章を付ける義務のない子どもたちだったそうです。

食べること、生き延びることに労力の全てを使い果たすようなこのような状況にあっても、コルチャックは文化活動を大切にしていました。
講演会、音楽会、演劇が開催され、ホームはゲットーの人々の心を癒す中心ともなっていたのです。

1941年6月・・・ドイツは不可侵条約を破棄して対ソ戦を開戦する。

同年11月・・ホームはシスカ通りのさらに狭い施設へと移動。
    その頃は200名を越える子どもたちが収容されていた。


コルチャックは老齢による身体の不調を押して街を歩き、人々に寄付をお願いするために歩き回りました。
一日中あるいても得られるものはごくわずか。
”他者の犠牲” ”不正な奪取”によって届けられた食べ物を、それと知りながら受け取ったというエピソードもありました。
それほど食べるものにこと欠いていたのです。


同年12月8日・・・・日本軍が真珠湾攻撃
       アメリカが日・独・伊に戦線布告。太平洋戦争始まる。

同年12月・・・・クリスマスの贈り物がホームに届けられる。

 1941年12月末ークリスマス。
 ポーランド地下抵抗組織(レジスタンズ)から子どもたちへのクリスマスの贈り物が届けられようとしていました。彼らは、きれいにリボンで包装したいくつもの箱を、ごみ運搬トラックのごみの中へかくして出発しました。ゲットー入り口でいつものように検問をすませたトラックは、ホームへひた走ります。静まった孤児院へ無事届いた贈り物ものに、コルチャックはしわがれた声で「ありがとう」と言い、使者たち一人ずつと抱き合い、幸せと平和を祈るのでした。一枚の礼状がそっと渡されました。「ユダヤ人たちは、この人道的連帯行為をけっして忘れないであろう。兄弟として同胞としてポーランド人のしたことをー」文字は震え、彼の深い感謝の念が伝わっていました。

『コルチャック先生』より(漢数字はアラビア数字に変換して記述しました。)

  *  *  *

 やはり最後までたどりつきませんでした。
紹介したいエピソードや自分のために貼り付けておきたい文章がたくさんあって・・・。
おそらく、おそらく・・・次回が最終回です。

おつきあいいただいた皆様・・・ありがとうございます。