「長男のこと」連載を終えるにあたって

 
 我が子のことを、ブログに書くってどうなんだろう??
そんな思いを抱きながらも、せっせと連載を続けてきました。
親バカさらさないように・・と心がけようとしたって「私」という存在=「この子たちの親」=「親バカ」・・・そんな磁場がいとも容易く発生します。
仕方なし!
と自分を許しながら一記事一記事。


3人の子どもたちは皆「自由に書いてくれ!」
と言ってくれます。


 「ブログ」である以上、他者へ向けての発信となりますが、
私は自分自身を励ますために、そして楽しむために記事を綴って参りました。

『長男のこと』の連載をそろそろ締めくくろうと思います。
それに際して、この記事を添えることにしました。
これももちろん自分のために・・。
自分の必要のために書き残すものです。

不安のさなかに・・・

 私がブログを書き始めたのは3年前の冬のこと。
当時、長男の鬱の症状は長引いており、次男は借金を抱えておりました。
結婚し落ち着き先を得たはずの娘でしたが、その生活において早くも不調和が現れ始めておりました。
「お金で解決」と思ったわけではないものの、ざわざわとした不安のなか、自分にできることはないか?と手繰り寄せたものがブログでした。
「小遣い稼ぎ」のワードにひかれたのです。

でも結局は、小遣いのためではなく、「書き残す効用」のために書き始めました。
そして、「書き残す魅力」にとりつかれ今も続けている次第です。

書き始めた当時、私の不安の道連れになったのが
『探さないでください』そして『震災ニート』という漫画作品でした。

『探さないでください』は、中川学氏の失踪体験を作品にしたものです。
彼は勤めていた中学校での仕事が苦痛で、ある日突発的に失踪してしまいます。
その職場は網走の学校!・・身近に感じられました。


『震災ニート』は、カトーコーキ氏が、震災をきっかけに鬱を発症し苦しんだ体験を作品にしたものです。
彼の持つ、幸せになることへの罪悪感が、幼少期の育ちの中で形成されたことなども語られており興味深いものてした。

以下過去のブログからの転記です。

『探さないでください』

 息子の失踪の知らせを受けた両親の当時の行動(父親はまだ存命)は、母親からの聞き取りを元にして再現されました。
このあたりを読むと、当然私の視点は、主人公からご両親へと移ってゆくのです。

学校から連絡を受け、勤務先に出向き、空っぽの住宅を確認し、車を走らせたもののいったいどこへ?
 雨がフロントガラスに叩きつけ、ワイパーは激しく動き、道路は黒々と濡れて光り、飛沫をあげています。

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「前が見えん。」この言葉にやられました。

この「前」は道を指しているとともに、息子の行方を指しており、息子の心のありかを指しており、我が子の「この先」・・・行く末を指しています。ざわざわとするような不安や焦燥感は私にも馴染みがあり、この絵は脳裏に焼き付きました。



『震災ニート

しかし、震災に関わる就労不能損害の助成金が打ち切られたという事情をかかえる母親の切迫感は一年前とは違いました。
「働いてもらわなければ‼️」
彼女はきっぱりと告げるのです。

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お母さんにとって、「いずれ漫画」でなどという息子の言いぐさにいつまでも、乗っかっていられないという焦燥感があったことでしょう。


34歳にもなって親の金をあてにしなければ生きていけない、情けなさ申し訳なさを切々と感じるコーキ氏でしたが、
生きるよすがを見つけ、その道の途上であった彼にも、一年前とはまた違った切迫感があったのです。
彼の生々しい感情が溢れ出します。

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私がこの作品を手にした時には、すでに彼らは表現者として世に出ていたことになりますね。
ご自分の負の体験に目を据えて、そこからみごとな花を咲かせたのでした。

逃げごまかしにまみれて暮らしていた『探さないでください』の作者である学さんが、「何かに本腰を入れよう!!」
と決意をしたきっかけが、吉本隆明氏の下記の言葉だったそうです。

「あるひとつのことに関してこうやれば食えるようになる」ということの平均値がおそらく
10年なんです。
10年間ずうっとやってもしそれでものにならなかったら 俺の首やるよ」

(思想家 吉本隆明氏の言葉・・・「ほぼ日刊イトイ新聞 吉本隆明・まかないめし二膳目」より)

学氏は吉本さんのこの言葉に背中を押され、その時から漫画の勉強を始めました。

私の、我が子Hに当てはめてこの言葉を受け取った、そのすがるような思いは、分かっていただけると思います。
 
 そして私は、「長男のこと」の連載を始め、書き進みながら、最後はトンネルを抜けて、納得できるような「ある地点」にたどり着く・・・
そんなシナリオを漠然と想定しておりました。

 特に昨年は、自作曲に関して色々と事が動き、期待のできそうな基盤ができつつあるように感じていたのです。

体調も安定していましたし、「進んでゆく」「たどり着く」というイメージを勝手に抱いていたのです。

ところが、昨年末。
あれよという間に、Hは、体調を崩してしまいました。

積み上げてきた階段は、幻だったのか?
階段ですらなかったのか?

ここまでやってきて、結局自分には何も残っていない。
人が当たり前にやれることがやれない。
全く進んでない!

薬の影響か?遠ざかってしまったような自分の感情の中に、そんな思いだけが押し寄せていたようです。

瞑想タイム

 朝瞑想の時間を取るようになった私。
最初の数回使ってみたYouTubeの誘導動画。
誘導する音声が示すような「至福」の体験はできませんでしたが、その音声が伝えるところによれば、

あなたにとって唯一大切なのは、この酔いしれるような深い安らぎの感覚

であり、絶対的な安全の場所
愛に包まれた場所であるという。
さらにそこは、私たちが

慣れ親しんだ本来の環境

でもあるという。

音声ははっきりそう伝えてはおりませんが、私はこの「唯一大切な場所」は「生前いた場所」、「死後行く場所」なのだろうと思いました。
そして、人生のゴールが等しくそのような地点ならば、私たちは何も煩うことはないではないか??
と思ったのです。

現世において私たちは、目的=ゴールのようなものを設定して、たどり着くことに固執するけれど、生きているうちには、「ゴール」などというものは無いのかもしれないとも思いました。

現世において設定する『とある地点』・・・そこにだけ価値があると思うのは間違いだなと。

そこにだけ価値があるのではなく、そこに至る全てに価値があるのではなかろうか?と。



そう、全てに・・・。
ネガティブなもの、苦労にも、苦痛にも。
みっともないものや、焦りにも。
人が生きたその全ての時間に価値があるのだろうと思ったのです。

つまり、息子でいえば、
Hは何も無くしておらず、ここまで生きてきたこと、やってきたこと、味わったこと全てが今の息子の現れであり、それが世間でいうところの「成功した姿」ではなくても、「できあがったようにみえる姿」ではなくても、価値の優劣は無いように思ったのでした。
そして、それは、長男だけでなく、次男も、長女にも!夫にも言えること。もちろん私もね!


もちろん不安は遠ざけたい。

それは本音。
できれば「安心」を手に入れたい。
それは当然!
でも、どういう状態であっても一生懸命「生きている」のならそこにすでに価値は存在するのだなあ!と思うようになったのです。

長男は「鬱」と付き合いながらこれからも生きていくでしょう。
今、仕事が充実し、生活の安定を得た次男もこれで完結!というわけではありません。
先日離婚が成立した長女は、元の夫くんとのこれからや、娘とのこれからを考えながら生きていきます。

3年という月日は、「私」に変化をもたらしました。
心配事を抱えながらも、日々を越える。
それしかないし、それで良いのだと思うようになりました。

「長男のこと」の連載を書くのは楽しかったし、記事の一つ一つが宝もののような存在です。
読んで下さった皆様には、心より感謝申し上げます。
ただ・・私はここに、嘘は書いておりませんが、かといって全てを書いてはおりません。
彼が実際今どのように暮らしているのか?
経済的にはどのような状況なのか?
などについては、書いておりません。
全てに価値が・・・と言いながら全てを晒さないのは矛盾があるとは思いますが・・お許し願います。


これからも、Hが新作を出した時には、作品を紹介していくつもりです。
連載形式ではなく単発記事で、書くこともあるでしょう。


話題満載の次男のことや、私とは違う生き方を選択し進みつつある長女のことも、話題にしてゆきたいです。