出会った一冊

抱っこして!!!

 前回は、次男の子育ての過程で大変苦労したことを書き、その出来事が私の星回り(サタン・リターン)と関係している可能性についても書き添えました。
kyokoippoppo.hatenablog.com

実際どんな風だったのか??
ー●ー●ー●ー●ー

 次男のぐずりは、たとえばこんなことで発生しました。
お菓子の袋を、ママでない人が開けた。
「ママに開けて欲しかった。」
と始まるのです。
親切にも袋を開けてくれたばあちゃん(義母)は、
「誰が開けてもおんなじでしょ。ほら、食べなさい。」
と優しく言うもグズグズグズグズ・・・・
「開けちゃったらもう、戻らないのだからがまんしよう!」
と私。

納得しない。

グズグズグズグズ・・・・。
それを見ている大人は
「いい加減にしろ!」
って気分になるのです。
私は、そんなムードに周りを引き込む息子の態度に困り果ててしまうのでした。
ー●ー●ー●ー●ー

 怒りからは怒りしか生まないだろうと思えばこそ、私は何でも言い聞かせてわからせようと躍起になるのですが、わからせようというこちらの思惑が突出して現れることもしばしばでした。

次男の行為に対して、
「まずはごめんなさいを言おうね。」
という私。
まずは「抱っこちて!」
という次男。
「先にごめんなさい‼️」
「だっこお!」
「まずはごめんなさいだよ!」
「だっこお!」
しがみついてくる次男に眩暈を感じる程の怒りが湧き、その身体を引き離し、果ては突き飛ばしても、
「だっこお!」
次男は泣きながらしがみついてくるわけです。
そして、そのうちしっこをもらす。
「ちっこもぐしたあ!」

らちがあきません。

 私はまずは、抱っこをして息子の気持ちを受け止めるようにしました。
抱っこして、語り聞かせる作戦です。
すると息子は抱っこされながら私の口をふさいでくる。
抱っこはされてもお話は聞きません!というふうに・・・。
だっこしてやるからおいでと招けば、
抱っこされてやるから怒らないで、というふうに次男から条件が出される始末。

まあ、誰が見ても下手なしつけ。
次男のわがまま、甘えっ子ぶり、面倒くささは拡大する一方でした。

そんな時期に手に入れて読んだ本が、「アリス・ミラーという人の書いた『魂の殺人』でした。

過激なタイトルです。
そして、決して読みやすい本ではありませんでした。
それでも辛抱強く読み進め、分かったことは、
「幼少時代のみずみずしい感情の発露を、養育者は禁じてはならぬ!!」
という著者の主張でした。
かなり乱暴な要約です。アリス・ミラーの主張の詳しいところは、この記事の最後に引用貼り付けいたしました。

自分に向けられた矢印

 大人にとっては不都合であったり、不愉快でもあった次男の感情でしたが、これを根絶やしにする必要は無いのだとまずは思ったわけです。
ただし、だからといって息子の要求を全て飲み込む必要はないのです。
私は、姿を現すであろう息子のぐずりを恐れ、(人の目があるところではなおのこと)先取りするように、状況を調整することをしがちでした。
「こいつともめるのは、やっかいだ。」
との思いから、そういう状況を回避するように動くことが増えておりました。
次男の「わがまま」は、このように、私によっても作られていたのです。
感情の発露は認める・・その姿勢を保ちながらも、彼の思い通りのことをしてやることはない。これは別のことなのだ。
そのように、線引きをするようになったのです。
なったのです・・・と書いたものの、そうすんなりとはいきませんでした。

その後も次男育ての苦労は続きましたし、悩みを道連れにしながら、何ともカッコ悪い恥ずかしい状態を晒すしかなかったのです。

さて、
実を申せば、この本との出会いは、次男をどうしようということではなく、自分はどうだったのだろう?
ということに向かいました。
そして夫はどうだったのだろう?と。

※このあと過去記事貼り付け貼り付けが続きます。読み飛ばして下さいね。私が私のために貼った記事たちです。

私と夫の育ちは両極のように違っていたものの、幼少期素直に感情表現をしてこなかったという一点においては共通するのです。
kyokoippoppo.hatenablog.com

この本との出会いによって私は、新たな学びの扉を開きました。

kyokoippoppo.hatenablog.com

自分のサタン・リターン時代の試練であり、そこから得た学びだったように思います。

12室の土星

 
 さて、ここから先はかなり自己流の当てつけに等しいかもしれない私の解釈です。

私がこの本を手に取ったのは次男誕生後のことですが、この本の存在を知ったのは彼の誕生前のこと。
切迫早産の疑いで一週間ほど入院したのですが、病院に置いてあった雑誌の1ページにこの本の紹介が載っておりました。
興味が向かい、その時、本のタイトルをメモしたのでした。
つまり、次男がこの本との出会いを作ったわけです。
そして『魂の殺人』は、私のサタン・リターン期の試練の助けとなり、その後の学び(といえば格好良いのですが、じたばたとした悪戦苦闘であります)になりました。
私29歳。
その時生まれた次男も同じ場所に土星を持ちます。
そして、その場所は次男の12室。
第1室が誕生の場所であることを考えれば、それは誕生前の場所。
切迫早産のときに、私のためにこの本を用意してくれたようにも感じるのです。

ここに始まった私の学びについては、また日を改めて書きましょう。


幼少期
小学生のころ、
中学生のころ、
高校時代、札幌時代本当に色々やらかしてくれた次男。
数年前も私に対して厳しいことを突きつけてきました。
kyokoippoppo.hatenablog.com
kyokoippoppo.hatenablog.com
これらは、ボチボチと思いついた時に書いてゆきましょう。


 f:id:kyokoippoppo:20210511182939j:plain:w530:leftそんな次男と長女から、母の日のプレゼントとして、高級シャンプーが届きました。
私が普段使っているものの10倍以上はするお値段。
アナツバメの巣からできた製品なのだとか・・。
優しい言葉もかけてもらいました。


ありがたいね!嬉しいね!
長男は常に生活苦に見舞われているので、そっとしておいてもらっています。
それも含めありがたい。



最後に・・
アリス・ミラーの主張について。
Wikipediaからの引用です。
アリス・ミラー(スイスの心理学者、元精神分析家。幼児虐待とその社会への影響に関する研究で知られる。 )

臨床経験の豊富さ及びその質の高さと、その著述の多さでは、世界的に注目されている。日本でも多くの本が訳出されている。ミラーは、人間社会の暴力性の根源を、幼児に対して加えられる暴力に求める。三歳までの子供は、親をはじめとする大人に対して全く抵抗することができず、自分でその場を離れることもできない。それゆえ、その間に幼児に暴力が加えられた場合、生き延びるためには、自分に暴力が加えられることを「正しいことだ」と肯定せざるをえない。このような形で暴力を肯定して屈服した子供は、その屈辱や悲しみを隠蔽し、その上に「正しい」人格(偽りの自己)を構成する。しかし、隠蔽されても屈辱や悲しみはそのまま生き延びており、それが絶えざる不安を惹き起こす。大人になってからも、それは一向に減少することなく継続し、何らかの機会にそれが他者に対する暴力として発揮される。特に暴力の対象となるのが、抵抗される心配もなく、またその暴力の行使を「しつけ」として正当化しうる自分の子供である。このような暴力の連鎖が、犯罪や反社会的行為の源泉であるとする。

「暴力」の定義

ミラーが危険性を指摘するのは、単に物理的な暴力に関するものばかりではない。子供を突き放したり脅迫したりするような、言語や態度による暴力もまた、同様の悪影響がある。これは特にいわゆる「成功者」に広くみられるものであり、彼らは子供のころから条件付の愛情しか与えられなかった者が多いという。親から真の愛情を与えられず、何か親を喜ばせたときだけ少しだけの「愛情」を与えられるという育ち方をした者は、他人に気に入られたり、褒められたりするために、大変な力を発揮することができるようになり、社会的成功をおさめることが多い。このような人物は、不安を紛らわせるために、他人を自分の思い通りに操作することに喜びを感じ、これが政府や組織による暴力に帰結する。しかし、このような形での達成には、なんらの満足をも伴わず、不安は決して解消されず、ほんの少しの成功の陰りだけで、大変なダメージを受ける。

ナチズムの分析

ヒトラーとその支持者を注意深く観察し、ナチズムが子供への暴力の一つの表現であると考える。というのも、ヒトラーの世代が子供だったころ、シュレーバー教育に代表される非常に厳格で暴力的な教育方法がドイツに広がっており、子供たちは家庭でも学校でも激しい暴力に晒されていた。ヒトラーも父親から日常的な殴打を受けて育っており、彼の政策は自分が受けた暴力を、全人類に対して「やり返す」性質のものであり、ドイツの多くの国民も、そのような政策を自分自身の衝動に一致していると感じて、支持したのではないか、としている。