おっちし

朝!快晴

 快晴の朝です。
が、私の目はショボショボ・・というのも昨晩は床に入るのが遅かったのです。
ウフフ・・楽しいイベントがあったのでね!
小学校で支援員の仕事をスタートさせた当時の児童だった二人と、会ったのです。
会場は我が家の近くのM君宅。
メンバーはM君、R君。晴れて結婚したR君は奥様ベビーちゃん連れで参加。
会場提供して下さったM君の母さま、R君のあーちゃん(お母さん)、当時の担任はご夫婦で、最後に私、というメンバーです。
十分記事になる濃い時間でしたが、写真も撮らず、許可も得ておりませんのでまたの機会に譲ることにいたしましょう。

 朝、目を開けましたら、部屋は十分に明るく、寝坊したなあと思い時間を確かめましたら5時半でした。
夜明けが早くなり、晴天の日はピッカリ!!と明るいのです。
さて、目はしょぼしょぼなれど、ひと記事書くことにいたします。

おっちし?おちいし?

 前回の記事は、くすぶっていた自分の気持ちが、ひょんなきっかけで起動し、その結果残すことができました。
kyokoippoppo.hatenablog.com
ブックマーク上やコメント欄に感想を残して下さった方もおられ、楽しい交流の場となりました。

・・で、そのコメントに呼応するように追加の記事を書きたくなった私です。
コメントを下さったのはjh0iamさん!
埼玉在住中小企業勤務ダメ人間の思うところ・・・
無線を愛好する方で、大の統計好き!!彼独自の統計結果や、趣味で収集保存されたものなどをお披露目して下さいます。
コメントはこのようなものでした。

根室本線の落石(おちいし)駅を「おっちし」駅だと思い込んでいました。
この地に、明治41年から昭和41年までの約58年間、落石(おっちし)無線電報局があり、船舶や航空機との重要な通信を行っていました。高さ90メートルの巨大なアンテナ塔など5基の鉄塔群などが設置されていました。
無線史に詳しい方にはこの落石(おっちし)無線電報局は非常によく知られています。
ただ、この無線電報局が「落石(おっちし)」として知られていますので、このあたりの地名や駅名までもが「おっちし」だと思い込んでいる方が一定数存在するのではないかと思われます。私もそうでした。

貴女のブログ記事でこの駅は「おちいし」と読むことが判りました。感謝します(^^)

多くの無線愛好家にとっての「落石」は、「おっちし」であると・・。

これを読み私は、そもそもが「おっちし」であったのだろう、と思いました。
だって・・・
オッチシ・・・・アイヌ語の響きを感じさせるではありませんか???


まずは「オッチシ」ありきで、そこに「落石」があてられ、そのうちに漢字の訓読み通りの「おちいし」に変換されていったのだろう・・・と推測しました。


調べてみましたよ!!!

落石の歴史|落石シーサイドウェイ(北海道・根室市)

こちらにばっちり!!な記述がございました。

落石(おちいし)という地名は、アイヌ語の「オク・チシ 人の首の付け根のくぼみ」に由来し、落石岬が本土につながる低地、現在の漁港周辺をさしている。

人の首の付け根のくぼみ・・・なるほど、落石岬はこんな形をしているのです。

(地図はこちらからお借りしました。https://47memory.com/blog-category-3.html


同じ場所を、オランダの探検家フリースもまた、「マンスホーフト岬」=人頭岬と名付けたとのこと。
1643年のことで、落石の場所が世界に紹介された最初のことだということです。
両者の共通性が興味深いと記されていました。

余談になりますが、

湧別と隣接する紋別市内にも、「落石」(オチイシ)」の町名がございます。
また、サハリンの北にアレクサンドルロフスク・サハリンスキーという都市があるのですが、ここは樺太・千島交換条約(1875年)以前の日本名は、アイヌ語由来の落石(おっちし)であったとのこと。

オッチシ」ネタから色々なことを知ることができました。

旧落石無線電信局 北海道の無線発祥の地

 jh0iamさんが教えて下さった無線局についても同じページに記されていました。
落石の歴史|落石シーサイドウェイ(北海道・根室市)
下記に要約しますね。

この無線局は、1908(明治41)年、北米航路の要衝として船舶や航空機と無線電信を行うため設置されました。
千島・樺太(サハリン)・カムチャツカの陸上局(電信局・郵便局)とも固定通信業務を行っていたのです。


1929(昭和4)年には、世界一周中のドイツの飛行船ツエペリン伯号の無線を受信。
アメリカのリンドバーグシリウス号で、1931(昭和6年北太平洋横断飛行を行った時も、無線の誘導により濃霧の中を根室港に着水させています。これは困難な状況の中、歴史に残る偉業として今も語られているそうです。
1945(昭和20)年終戦時には、旧ソ連軍(ロシア)の択捉島侵攻の無線電信の第一報を受信しております。

このような逸話を持つ局ですので、「おっちし」の名称と共に、無線愛好家の方たちにも良く知られることになったのでしょう。

施設は1966(昭和41)年、札幌中央電報局に統合されることとなり、半世紀を越えるこの地での業務を終えました。
アンテナ塔の基礎と、塔を固定するワイヤーの基礎などは残されているようです。


続く文章に「お??!!」と小さな声をあげた私です。

その後、荒れていた建物を、銅版画家の池田良二・武蔵野美術大学教授が1985(昭和60)年より改修を続け、スタジオ(仕事場)として利用している。

あら??
池田良二氏
北海道在住の加藤多一の『馬を洗って』の挿絵を手がけた方ですわ!!
kyokoippoppo.hatenablog.com