アルノーと檸檬

『八月の銀の雪』
に収められている5作品を1話ずつ紹介しております。

ここに収められている物語にはそれぞれ、ノンフィクションの基盤がしっかりと存在しておりまして、それが作品の魅力、おもしろさとなっていると感じまして、こんな風に1話ずつ記録することにしたのです。


今回は3話目、『アルノー檸檬です。
さて、このルノーについて・・・これだけ聞いてピンと来る方は少ないでしょうねえ。
もちろん私も予備知識ゼロでページをめくった一人です。

正樹のミッション

 不動産関係の仕事に就いている39歳独身男性正樹が登場します。
彼の目下の任務は、古びたアパート三〇三号室に住む「白粉婆」の気持ちを何とか立ち退きに同意させること。
住人全ての立ち退きが済めば、そこは更地にされ、十階建ほどのマンションになるのです。

 慇懃無礼に頭を下げ訪問した正樹の前に立つのは顔だけを白塗りし、伸び放題のざんばら髪を束ねてもいない婆さん、加藤寿美江です。

「一生居座るつもりはないが、今はダメだね」
と寿美江は言います。
迷い鳩がベランダに居付いてしまったというのです。
それもただの鳩じゃない。
彼女は断言するのです。
足環もついており「アルノー」の文字と不明瞭な数字が見て取れます。
ほら!立ち姿にも気品があるだろ!!
と・・・・。
帰る場所を探しているのか、日々飛び立っては、このアパートの寿美江の家のベランダに舞い戻って来る。
迷い鳩ではあるが、今はここを拠り所としているのだから、今退去はできぬ!!
「私に出て行ってもらいたいならこの鳩の飼い主を探すことだ。」
寿美江はこのように言い放つのです。

こうして正樹のミッションは、鳩の飼い主探しと相成ったわけです。

当座の上司の命令ではありますが、悠長な猶予はありません。
ずるずると埒が明かないときは、外でとっ捕まえて殺してしまえ!
とも言われていました。

寿美江と鳩の存在は、会社にとってはさっさと終わらせてしまいたい厄介事なのでした。
この婆さんの頑固を快く思っていないのは会社だけではありません。
店子たちの集団交渉のまとめ役でもある同じアパート住人の佐竹がその人。
寿美江を「あのババア」と呼んで憚らない。
 
 ミッションは同じでありながら、正樹はこの爺さんに対して心底嫌気がさしています。

その下卑た顔を見ていると、この男に目をつけた上司の慧眼にあらためて身震いしそうになる。

(傍点部分をアンダーラインにして引用)

 佐竹は、住人側のリーダーとして奔走していると見せかけながら、実際は貸主側に有利な条件で交渉がまとまるよう店子たちを誘導する。それが成功した暁には、佐竹だけが見返りとして多額の多額の立ち退き料を手にするというわけだ。

タバコをくわえ、道の向こうのタワーマンションを見上げる正樹の胸に苦々しい思いが立ちのぼります。

大差ない。あの七十平米八千万の部屋を買った人間も、この古アパートに住んでいる人間も。
 どちらも、たやすいもんだ。作られたイメージに、はした金。結局のことろ、人も街も消費する“東京” に、いいようになぶられているだけ─。

ルノー

 「アルノー」といえば、『シートン動物記』ですね。

東日本鳩レース協会の総務部長は、やけに慇懃にそう口をひらきました。





これを皮切りに、正樹はこの鳩の素性をつかむべく動き出すことになります。
寿美江に続き、正樹が出会うのは小山内という男性です。
以前東洋新聞で記者をしていた男で、長く科学部に籍をおいていました。
渡り鳥の研究者の取材をしたのがきっかけで鳥の世界にはまり込み、今だに観察や撮影をしている人でした。

 そこで語られたのが、かつて日本の新聞社や通信社で活躍した伝書バトの存在です。
大正の終わり頃から1950年代まで急ぎの記事の送稿にハトが使われていたというのです。
他所を出し抜けるかどうかはハト次第。
どこの社でも数百羽を飼ってハト係が日々訓練していたのだそうです。

鳩の素性を追う過程で小山内に出会った正樹。

人が人と出会い・・・・そう・・もうお分かりのことでしょう。
正樹の心に変化が生じます。

正樹の越し方、小山内の越し方が明かされていきます。
タイトルにある「檸檬」との関わりも…。

これから本書を手に取る方のために、私の記事はここまでにいたしましょう。

そして、大変興味深かった本書のノンフィクション部分に関する記事を貼り付けておきましょう。



bunshun.jp
以下2点の引用と写真はこちらから。

かつて、新聞社や通信社のニュースと写真がハトによって運ばれていたことを知る人はどれくらいいるだろうか。1960年代まで、各社は常時数百羽を飼い慣らし、社屋の屋上などにあった鳩舎から飛び立つ風景はマスコミの世界の風物詩だった。
かつて共同通信社の屋上には伝書鳩がいた。

共同通信社の画像)

「読売新聞百年史」(1976年)によれば、読売が鳩舎を閉鎖したのは東京オリンピック後の1966年1月。しかし、「最後に使われたのは(昭和)二十九年冬、富士山で起こった遭難事件の取材だった。使われなくなってからも十年間、ハトは鳩舎に飼われ続けた」。「ハトは鳩舎閉鎖とともに愛育家にもらわれていった。だがしばらくの間、本社をなつかしむかのように、何羽となく鳩舎に舞い戻ってきていた」という。
 ハトははく製や記念像となっていまも新聞社や通信社の建物の片隅にいる。


本書の中でエピソードとして紹介されていたこちらの出来事も貼り付けておきましょう。
siratori.blog.jp