凧と風船・・・十万年の西風

『八月の銀の雪』

これに収められている一編一編について記事を残しております。
今回が最終章となります。
『十万年の西風』です。

六角凧

澄んだ海の色は、浅瀬ではまだらに緑がかり、沖へいくにつれ青を濃くしていく。秋晴れの空は遠くなるほど白味を帯びているので、濃紺で引いたような水平線がくっきりと見えた。

読者の視線も、海と空の混じり合う水平線へと誘導されるような描写です。

その先にあるのは白い浮遊物。
やや縦長の六角形の凧でした。
大型で、昔ながらの形の凧。
さほどの興味も持ち合わせず、それでも辰朗は車を止めた駐車場から砂浜へと降り立ちました。

辰朗の目的地はすぐそこながら、そこへすんなり足を踏み込めない気持ちでもあったのです。
そこは北茨城市の北端、長浜海岸。
凧をあげていた男性に近づき言葉を交わし・・・そう、二人は出会いました。

「形は六角形が良いのですか?」
辰朗

先人の試行錯誤が生み出した形というのは馬鹿にできないものでね。六角凧は弱い風でもよく揚がるし、今どきの凝った凧と比べても安定性は極めて高い。
海外でも『Rokkaku』と呼ばれてよく使われているんですよ。」

そう答える男性。
幼い頃に凧を仕込またという、新潟三条生まれの人でした。
お父さんに仕込まれたのか?
と尋ねた辰郎に、
父は僕が幼い頃に戦死したと答えました。

辰郎には、幼い頃父親とゲイラ凧を揚げた思い出があり、それがふと心に浮かびます。

 凧を揚げる男性は滝口と名乗りました。
さらには、自分が気象学の元研究者だったことも明かしました。
定年退官したあとも、
凧揚げは趣味、観測は習慣!
という気持ちで凧を揚げ、高層の気象データを集めているのです。

良いタイミングで居合わせた辰郎は、その観測を手伝います。
高層の気象観測には気球を使うことが一般的ですが、気球を揚げるとなると大掛かりな仕掛けと見合った地理的な条件が必要です。
その点凧なら、アクセスの難しい場所でも手で持っていかれます。
南極や山岳、海上では凧での観察が適しているというのです。

そんな話を聞かせてくれる滝口でした。
そして辰郎に、
どこから来てどこへ行くのか?
と尋ねます。

その問いは、辰郎の人生の問いと重なるものでした。

原発の町で・・

 辰郎はずっと原発で働いてきました。
凧揚げを共にした父も、そこで働く人でした。
父親はその建設に関わってきたのです。
その仕事に誇りを持ち、とりわけニ号機の建屋については
「父ちゃんが建てたようなものだ」
と自負していました。

その二号機の配管継ぎ目に、わずかな歪みが見つかったのは、震度4の地震のあった翌日。
東北大震災後の新規制基準の審査も大詰めというタイミングでもありました。
辰朗の報告を受けた部長は、この報告書の点検実施日を一日前の日付にするように伝えます。

つまり、この歪みは継ぎ手そのものの部品の不良か劣化とすることで、地震とは無関係であるように、工作を命じたのです。
地震の影響となると、それは設計そのものの問題とされるからです。

電力会社からの指示やほのめかし。下請けとしての忖度。それらが長年かけて絡み合い、定着したのであろう隠ぺい行為だった。

自分が働き、家族を養う職場。自分の家族ばかりでない、このこの町で暮らす多くの人たちの生活の糧を提供している職場。
そこで行われようとしている不正。
内部告発という考えが浮かんでは、打ち消す辰郎でした。

結局彼は、自分の一存で会社を辞めました。
そして、見ておくべきだったのにそれをしてこなかった場所…福島へと車を走らせたのでした。

使用済核燃料の放射能の影響は、この先十万年続く。
福島の原発炉の下に残る、溶けた核燃料も同様だ。
その長き間の安全性を、誰がどのように保証できるというのでしょうか?
十万年先がどんな世界か?
封じ込めた放射能の心配をせずに、もっと平和なこと…空や風へ好奇心を寄せたいものだということを辰郎は口にします。
すると、滝口
「風も平和に使われるとは限らない」
と言いました。

風船爆弾

 滝口は、第二次世界大戦時に日本で作られ、使用された「風船爆弾」のことを話し出しました。

紙とこんにゃく糊で作られたという風船爆弾は、戦争末期に軍が考案した苦し紛れの作戦のように捉えられがちですが、滝口の説明によれば、
調達が容易ということに加え、重さ、耐圧性、水素透過性のすべての点において、優れていたということでした。
神風という名の偏西風に乗った爆弾の一部(約10パーセントである一千発)は、アメリカまで到達しました。
オレゴン州でピクニックをしていた民間人・・・5人の子どもと妊婦だった女性が犠牲者となりました。
またこの武器は日本人の犠牲者も生みました。
放球時の暴発事故により、4人の兵士が即死したのです。
4人の弔いをする余裕はなく、遺体は斜面の山で焼かれたのでした。
(実際の犠牲者は3人です。作品ではこれに滝口の父親を加え、4人としています。)
その痛ましい犠牲者の一人が滝口の父親であった、という箇所はフィクションです。
しかし、風船爆弾の実際や、アメリカでの民間人の犠牲者、事故による日本人犠牲者については事実です。



www.tbs.co.jp

www.asahi-net.or.jp


(画像はこちらからお借りしました。)
辰朗と滝口が出会った海岸のほど近くに、風船爆弾犠牲者の鎮魂碑がありました。
茨城県北茨城市大津・・放球基地の一つがそこにあったのです。

そのすぐ先は福島県
辰朗のその先については語られておりません。


*   *   *


 自分の思いにかられて、5つの物語を紹介しました。
物語と事実が入り混じる作品たちはどれも興味深く、”知らなかったことを知る”良い機会となりました。
記事にお付き合いして下さった方々・・・ありがとうございました。