6月最後の週末

久しぶりの夕焼け

 6月24日金曜日。
ニュースでは、各地の真夏日猛暑日の様子を伝えておりましたが、嘘ではありません。
当地は寒かった。
職場教室の暖房を入れました。
外は雨・・風は生ぬるく夏の気配を辛うじて伝えてくれるのですが、お日様がずっと顔を出さずじめじめした日が続いており、老朽化した校舎の中は寒いのでした。
・・・・ぶるぶる。
北海道は梅雨が無い、と言われておりますが、この時期「オホーツク海高気圧」の影響が強いと寒々ジメジメとした天候が続いてしまいます。
高気圧でジメジメ??
と思いますが、そういうことらしい。

翌日は一転夏の陽気!と夕方の天気予報は伝えれるもののほんとかな??
ふと西の窓に目をやれば・・おおおオレンジ色の光が満ちている。
急いで外に出てみると・・・見事な夕焼けでした。

予報通り晴れるかな??

廃村鴻之舞

 夜7時半よりNHKで『廃村の記憶〜鈴井・多田が金山跡で感じたものとは〜
という放映があることを知り、見てみました。
www.nhk.jp


鴻之舞鉱山跡地は若い頃夫とドライブしたことがあります。
村そっくりゴーストタウンになっている風景に心底驚きました。


この金山について以下Wikipediaから一部抜粋します。

紋別市鴻之舞にある。鴻之舞は、紋別市中心市街地であるオホーツク海側から約25キロ程度、遠軽町の旧丸瀬布町方面に南下した地点である。
この地を含めて、オホーツク海側、特に北オホーツク枝幸のパンケナイ、ウソタンナイなどの川では、明治30年代頃に砂金が発見され、砂金掘りたちが集まり、「ゴールドラッシュ」となった。

鴻之舞鉱山は、金・銀・銅などを産出したが、中でも金の埋蔵量は佐渡金山・菱刈金山に次ぐ日本で第三位の産金の実績であり、1940年(昭和15年)には年間金2.5トン、銀46トンを産出。1955年(昭和30年)には金年間2.98トンの最高産出量を記録した。

鉱山の発展に合わせて、鉱山労働者とその家族の居住する街区が、藻鼈川・道道に沿って形成され、最盛期(1942年頃)には人口14,640人を数えるまでになった。
第二次世界大戦後、1948年に操業を再開したが金価格が下落し、資源も涸渇したことから、1973年に住友金属鉱山鴻之舞鉱山の閉山を決めた。

木製の構造物は既に朽ち果て、集落もないが、大煙突、発電所跡、学校の側壁跡などのコンクリートやレンガ製の構造物が藪や林の中に散見される。鉱山があったことを示す碑、鉱山犠牲者の慰霊碑が建立されている。


画像もWikipediaより。

廃村上雄柏

 番組では並行するように上雄柏という廃村も紹介されました。
かつての住民堀江春夫さんが案内役。
堀江さんは、ある日尋ねた故郷の、あまりに荒れ果てた風景に愕然とし、涙を流しました。
荒れるにまかされ、母校も手も付けられずに朽ちており胸を痛めたのでした。
それを機に、堀江春夫さんの活動が始まります。
居住地(当時は滝上在住)から故郷へ通っては、瓦礫を片付け始めたのです。
たった一人で。何年もかけて。

さらには、かつての校庭に花壇を作り、今でも現在の居住地旭川から定期的に通って手入れを続けておられます。
誰の目にもふれることない花壇の手入れを続ける思いは堀江氏の故郷を思う切なる心そのものです。


以下、廃村に関わる記事を多数書いおられる「HEYANEKO」さんのホームページ廃村ひとすじ! HEYANEKOのホームページからの抜粋です。



www.din.or.jp

北海道滝上町上雄柏(かみゆうはく)での体験を紹介したい。
オホーツク沿岸の紋別市か45キロほど内陸に入った上雄柏は農業と製材を生業としていたが、昭和40年代に人口が急減、2007(平成19)年に最後の住民が転居し、無住となった。「どのような廃村なのか」と思いながら昨年5月に訪ねると、学校跡は整然としており、跡地を示す碑のそばには花壇があった。
 花壇は上雄柏小中学校卒業生の堀江春男さん(1957年生まれ 旭川市在住)が独力で整備したと知り、今年3月上旬ご本人を訪ねた。堀江さんは上雄柏の農家に4人きょうだいの次男として生まれ、高校卒業後は航空自衛隊に入隊。2012年に退官して両親が住む滝上町の市街でビル管理の仕事に就いた。
 37年ぶりに上雄柏へ帰ったとき、あまりに荒れ果てた母校の姿に言葉を失い涙が流れ、怒りさえ込み上げてきたという。だが、がれきの隙間に咲くスイセンの花を見て「希望の明かりがともった」と感じ、故郷で生き続けた花を中心に学校跡を整備しようと思い立つ。  取り組みを始めて3年目の秋、成果を車いすの父に見せることもできた。これを区切りに、2015年の春、堀江さんは旭川市に転居することになった。
 計画づくりから完成後の手入れ、さらには手入れができなくなっても学校跡が後世に残るよう敷石を配置するなどその周到さには敬服した。廃村のさまざまな姿を見てきたが、元住人のこれほど強い思いに触れたことはなかった。

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我が母校

 我が母校・・「上菅田小学校」も2020年に閉校してしまいました。
私が通っていたころは児童で溢れ校舎が足りず、校庭がプレハブで埋め尽くされておりましおたのに・・。
kyokoippoppo.hatenablog.com

そして現在のわが職場、息子娘たちの小学校も今年度いっぱいで閉校となります。
その後は「義務教育学校」として再生します。
きれいな新校舎がグランド横に建設中!!

来年度はピカピカの校舎へお引越しです。
喜ばしいことではありますが、児童数の減少という現実、小さなものが次々と統合されてゆく時代の流れを感じます。


これをアップする本日は25日、日曜日。
朝からピッカリ晴れました。
清々しい天気です。

追記

 数日後、埋もれていた新聞切り抜きから発見されたもの。
ここに貼り付け保存いたします。