とても衝撃的な内容だった『母を捨てる』について、4つの記事を続けて書きました。
今記事では、その後の久美子さんについてを語り、このシリーズを締めたいと思います。
「書きたい」という思いのもと始めた記事ですが、生き辛さを抱えた人の苦しみが、ぎりぎりと伝わってきて、作業を進めながらも、「そろそろこの本から離れたい」という気持ちが湧いてきました。
生き辛さを抱えた人とは、虐待被害者である子どもたちであると同時に、加害者である母親も含まれます。
その後の久美子さんについて書いてゆきましょう。
不登校から引きこもりへ
まるでプロの物書きのような生活を送った小学生時代の久美子さん。
屈託なく交われる友達などできようはずもなく、彼女はクラスの中で少しずつ疎外され、そのうちいじめの対象となりました。
汚いもの、悪いものの感染源として扱われ、激しい排斥の反応をクラスの全員が示すようになったのです。
卒業も間近になった頃、久美子さんは登校できなくなりました。
身体が言う事を聞かなくなったのです。
そんな久美子さんに母親が勧めたのは、私立中学校への入学でした。
教育レベルの高い立派な学校へ娘を通わせることで、自分の自尊感情を満足させたい母親の思いから出た言葉でしたが、久美子さんにとっては、今までの友達関係から離れるチャンスとなります。
久美子さんは、そこへ通うこととなりました。
ところが、良い家庭でそだった上品なお子様たちが通う学校というイメージの強いその場所で、久美子さんは更に酷いいじめを受けることになります。
そこは、小学校とは比較にならない程の陰湿ないじめが横行する“地獄の学校“だったのです。
常に高みを目指して、来る日も来る日も競わされ、勉強に明け暮れる生徒たちは、誰もがひどく病んでいて、他者をいじめつくすことで、自分のガス抜きをする必要があったのでしょう。
再びの不登校。
そして、引きこもり、家庭内暴力へと久美子さんは追い込まれてゆきます。
家で長く過ごすようになった彼女は、幼い頃受けた虐待の記憶がフラッシュバックするようになりました。
抑えきれないマグマが噴き出し、母に詰め寄った久美子さん。
「あんた、私を虐待したよね」
驚くことに母は、その記憶が無いと答えたのです。
相手が、その事実を認めない、知らない、覚えが無いというのです。
身をよじらせて発せられる彼女の訴えは、相手が受け取らないために、行き場を失います。
痛みも、苦しみもそっくり返される。
張り裂けそうな思いのままに、久美子さんの身体が動きました。
母の首を絞めたのです。
久美子さんの手から逃れた母。
荒れ果てた部屋に残された久美子さんは、
「ごめんなさい ごめんなさい」
と自分を責めるのでした。
親が一切抱かない懺悔の感情を、何故か久美子さんが引き受けて、自分の暴力を悔いるのでした。
このような家庭内暴力が幾度となく繰り返されたそうです。
小学校教師の父は、いったいどうしている?
記事を読む皆さんも、当然思うことでしょう。
久美子さんの父親は、常に無関心、家庭内のことに全く関わろうとしなかった人でした。
バリバリの「ハルキスト」であり、自室をお気に入りの隠れ家として閉じこもり、我が子たちの窮状には一切向き合ってきませんでした。
そんな父親が、感情を顕わにした唯一の出来事がありました。
不登校を続けていた久美子さんに向けて感情的な言葉を放ったのです。
「お願いだから、俺のために、学校へ行ってくれ!出世に響くじゃないか!」
教育という場に身を置き、働く人間が、我が子に放った言葉がこれでした。
俺のため、
俺のため、
この家庭においては、「久美子」という子どものためという思いが、どこにも存在しなかった。微塵も無かったのですね。
自殺願望
こんな両親でも、子どもにとっては唯一無二の存在です。
久美子さんは自分を責め続けました。
「私なんか生まれなければ良かった。」
この世に生を受けた自分を責めました。
そしてその頃から、本格的な自殺未遂に及ぶようになります。
様々な方法を試すも、当然怖さも躊躇もあり、死にきれるものではありません。
一方で、豊富にある時間を使い、本を読み世の中のからくりを知ってゆくように
なります。
そして自分の味わった事例は、自分特有のものではないこと、同じ苦しみを味わっている親子が日本中にごまんといることを知ってゆくのでした。
久美子さんが知識の扉を開くための助けとなった著作者や作品について触れておきましょう)(敬称略で)
そして『完全自殺マニュアル』(鶴見済)です。
久美子さんは、この一冊によって命を繋ぐことができました。
いざとなれば、自ら命を断つことができるんだ!
このことが、彼女にとっての貴重な避難場所となったのです。自分の命を我が手の中委ねるているという感覚が、彼女を心底安心させ、落ち着かせてくれたのでしょう。
この本を片時も離さずにそばに置くことで、久美子さんは苦しい日々を持ち堪えたのでした。
さて、彼女は不登校のまま、私立中学を終えました。校長室に集まった先生方からの「おめでとう!」の連呼の中、久美子さんは“完全に詰んだ"自分の人生を自覚し、深い絶望に飲み込まれてゆくのでした。
高校生
彼女は高校生になりました。受ければ誰でも入れるという噂の底辺校。
登校する気持ちはありませんでした。
周りの大人からの、とりあえず学校に籍だけ置いて!という要望に応える形で受験したに過ぎなかったからです。
次はせめて入学式だけは!
という母親からの懇願があり、彼女はそれにも応じました。
入学式当日、彼女は一人の生徒から話しかけられます。
ニッコリと無邪気に笑って、受験に失敗してここに来たということをあっけらかんと明かされたのです。
ここの生徒は今までと違う!
みな優しくておっとりしており、安心できる雰囲気を感じたのでした。
2日、3日おそるおそるの登校が続き、やがて彼女はこの学校になじんでゆきました。
学力の高い生徒が集まる学校が、冷たく陰湿で、底辺校といわれるような学校が、明るく穏やかな場所であるというような短絡的な捉え方をしてはいけないと思います。
それでも、久美子さんの体験の範囲でいえば、そう思えるような現実があったのでした。
ここで、彼女は初めて友達と繋がり、楽しい高校生活を送りました。
さて、本書はここから、第六章以降につながります。
「母の見えない傷」
「性と生」
「母を捨てる」
久美子さんなりに母の生育歴を知ろうとし、理解しようとしたこと、母から離れて暮らした18歳以降のこと、やがて性の世界や事故現場や孤独死なとの取材を元に書くライターになったこと…それらが綴られています。
年を取った母親は、しおらしく、久美子さんの言う事を何でも聞く老女となりました。
娘しか頼れない状態となった母との関係は、安定し、蜜月状態だったと書かれています。
久美子さんはその母との縁を、切ろうと決意します。
老いて力無くし、我が子にしがみついてくる母親は、彼女にとっては、最終形態となったゲームのラスボスでもあったからです。
ここから離れなければ、私は最後の最後まで自分自身を生きることができない。
久美子さんは、そう考えたのでしょうね。
信濃毎日新聞のエッセイ欄に、母から受けた虐待体験を書くことを決めました。
母親がこの新聞の購読者であることを知った上での決意でした。
彼女の学童期、彼女の作文や創作が紙上に掲載されることを喜び、自分の満足に替えていた母親は、今度はそこに、とてつもない戦慄と恐怖と屈辱を味わったことでしょう。
今は、お母さんとの連絡は途絶えているとのこと。
これから当然訪れる親の死に際しても、
「家族代行サービス」に委託する覚悟でおられます。
* * *
久美子さんの生育歴に重点を置いて書きました。
しかし、やや端折って書いた後半の章が最も大切で、久美子さんのメッセージが色濃く盛り込まれている部分なのでしょう。
自分を傷つける親からは、逃げて良いのだ!逃げて我が身を守ってほしい!
久美子さんは、同じように苦しむ他者へ向けてこのように伝えています。
そのための支援の情報も盛り込まれております。
私の育ちとも違う!
私の育て方とも違う?
でも、全く無関係ではないという感じを随所で持ちました。
それでこの記事を残すことにしたのです。
何とかここまで綴りました。
久美子さんの、メッセージを伝え切れたとは思いませんが、明日は本書を図書館へ返却して、この話題から離れようとおもいます。
菅野久美子さんの作品に興味を持たれたかたは、本書を手に取って下さいせ。
ネットにもかなり詳しい情報が載っていました。
ここまで目を通して下さったみなさま!
ありがとうございました。