とおいとおい理想

「私」を中心に置いて・・・青春期

過去ブログ『私を中心において』の青春期あたりを語ってゆきます。
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林竹二のことば

 林竹二は1906年生まれ、もと宮城教育大学の学長です。退職後さまざまな学校をまわり授業を行い独自の教育観を持つようになります。
その主張は実践そのものや、対談 著作物によって発信されました。
1985年に亡くなっております。
没後30年以上がたつわけですが、林氏の言葉は過去のものであり、今となっては無用のものなのでしょうか?
そうあって欲しくない私がいるのですが、では私にいったい何ができるでしょう。

また、私は林氏の影響を少なからず受けたと思うのですが、実際私はどのようにここまで生きてきたのでしょうか?
林竹二の言葉を活かして自分のものにしてきたと言えるのでしょうか?

 林竹二の残してきた言葉を伝えながら、私のこれまでについても語っていこうかな?と考えております。
なるべく正直にさらしてゆきたいとは思っておりますが、自分の未熟さを隠しておきたい気持ちに勝てないことがあるかもしれません。
夫やわが子たちのプライベートをある程度守るために書かないこともあるかもしれません。

林竹二の言葉

教育の荒廃の根本原因はテストを軸とする教育体制である。
林氏はこう言い切ります。(『いま授業を変えなければ子どもは救われない』太郎次郎社より)

この本は、林竹二と、当時明星学園の小中学校長だった遠藤豊(現自由の森学園学園長)の対談を収録したものです。

林・・・・・教育ということには、教えるということのほかに、育てるということがふくまれています。しかも育てるということは教育のもっとも根本的な要因であります。生命を持ったものは自分自身の中にたえず成長する力をもっています。しかし成長する力をもっていてもその成長のために必要な栄養分を外から与えなければ、成長を遂げることはできないのです。与えられたものを噛みくだいて、そしゃく吸収して、自分の血や肉に同化することによって成長は実現するわけです。育てるということは、そういうことです。
そうであれば、授業というものは、与えられたものが原形のままでいつまでも胃のなかに残っていては成長はできません、それでは、わるくすると、病気になって死にます。いまのテストというのは、与えられたものがどれだけ原形のまま胃のなかに残っているかだけをはかっているわけでしょう。これでは人間を殺しますよ。子どもを育てるのではなくて、子どもを殺す作業をしているわけです。
学校というところが・・・・・。

林氏は続けます。

授業のなかで学んだものは、全部吸収されて、影も形もなくなっていなければいけないはずです。

「先生」になった私

 私は19歳のとき林竹二の本に出会い、強くひかれました。
そして短大卒業後二十歳から三年間、神奈川県で小学校教員として働きました。

 ノートを用意してタイトルを『点数からの解放』と書いたことを覚えております。
しかし、そのノートに何を書き込んだものか?何かを切り抜いて貼ったりしたのだったか?
はてさて、全く思い出せません。
タイトルはつけたものの、それに見合う内容のない空っぽのノートだったということです。

 公立の学校で働けばテストはつきものですし、評価もしなければなりません。
教えたことを教えた通りに答えなければ点数にならない仕組みのテストを、定期的に行うのです。
子どもを殺すに等しい」という感覚を心底感じていたら持ちこたえられるものではありません。

林竹二の理念を取り入れてどう現場の仕事をしてゆけるものか?
字を教えて、計算のやり方を教えて、跡形もなく消化させるとはどういうことか?
林氏の言葉が多くの先生方に、まるで次元の違う世界の言葉のように受け取られたとしても仕方ないように感じます。

 そんな現実ではありましたが、林竹二の理念を忘れることはできませんでした。
遠い遠いところにある理想でしたが、はるか離れた地点から私は、そこに眼差しだけはむけていたのです。

子どもたちは授業によって変貌を遂げること。
それは、その子の知能や学業の成績に関係なく訪れる変貌であること。
そのような学びは子どもを深い集中に導き、それは、カタルシスとなって子どもの表情を美しくすること・・・・・。
子どもを幸せにする授業、喜ばせる授業、高みへのぼることを助ける授業は、実際行われ、記録として残されたのですから。

 私が何とか自分に課すことができたのは、せめて点数で子どもを判断しないことでした。
クラスの目立たない子や、声の出しにくい子どもたちの警戒心を解かし、親密に関わろうと心がけたことでした。
とはいえ総括すれは、当たり前の、普通の学級を作ることにも手が届かず、悪戦苦闘した3年間でしたね。

お母さんになった私

 私は結婚を機に退職し、北海道にやってきました。
さけますの増殖事業にかかわる事務所のお留守番という全く別世界の仕事につきました。
(このこともいつか語りたい)
そして、事務所閉鎖に伴ってそこも退職、専業主婦になり母親となりました。(つづく)