つながり①

 今回のお題は「つながり」です。
巨摩中の名前こそ、聞いたことはありましたが、私は、この学校の事実を知りませんでした。

 戦後の教育問題や子どもをとりまく環境についてポチポチと書いておりますが、
巨摩中のことはどうしようかな?飛ばして先に進もうかな?とも思ったのです。
検索をかけても、それこそ現在の「白根巨摩中」のことが混在し、的確な情報にたどり着きそうにもありませんてした。

 でも、目に入った『地方公立校でも「楽園」だった』(中央新書ラクレ/川村美紀著)は読んでおきたくて図書館にリクエストをしたのです。

 この本には巨摩中のことが書かれており、巨摩中のことを知ることができる・・・・・当たり前ですが、その当たり前の前提で読み始めました。

 しかし、そこには、巨摩中に事象として起きたことを越え、そこに至る歴史、社会事象、人の思いや歴史などが丁寧に記されておりました。

 時間のトンネルがあり、広場があり、人がいて思いがある、社会があり、慣習がある。
そしてそこに縛られず働いた巨摩の教師がいる。中学生の美紀さんがおり、そこで学んだ先輩や友がいて、その生徒たちが、時間のトンネルをくぐり再び登場する。

 そのように広がりをもったこの本の中で、思いがけず私は、懐かしい風景にに出会ったのです。
それは、単なる単語から想起される微かな思い出なのですが、私もトンネルをくぐったり戻ったりして、散策をしたような気分になりました。

 そう、とても個人的なこと。
だから、これは私が私のために書くブログであることを先にお断りしておきます。


 ⚫「新しい絵の会」
巨摩中教育の創成期から年間、研究の中心となり、牽引役なっていたという久保島信保氏。彼は「新しい絵の会」に所属していました。

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 ああ、私もその会に入っていたな。神奈川の小学校で働いていた時に。
この会への直接的な興味からではなく、この会の研究大会(鳴子)で林竹二が講演することを知り、入会したと記憶しております。
結婚し、学校という職場とは無縁になりましたが、近所の子どもたち対象に土曜日の午後「絵の教室を」開いた時期もありました。

⚫「明星学園

本書には巨摩中と明星学園のかかわりについて、書かれていました。


巨摩中は明星学園とも交流を持っており、とくに最初のころは明星学園から学んだことも多かったらしい。当時、明星学園は「民間教育研究のメッカとして、毎年行われる公開研究会には、全国から二千名もの熱心な教師が集まって、熱っぽい討議が行われていた」(『ぼくたちの学校革命』)。
また無着成恭が同校の教師となっていた。


そう!これも林竹二の講演目当てで、公開研究会を見に行きました。
まだ、無着成恭氏が、在職していた頃でした。
この会場で、『ひと』誌を知り、その後長い間購読を続けたのです。
『ひと』の出版社は太郎次郎社。現在一連の、記事を書く際の参考にしているフォト・ルポルタージュ子どもやがて悲しき50年』の出版社でもあり、私の教育実習の担当教諭であった千葉保氏の著者をだしている出版社でもあるのです

「林竹二」「斎藤喜博
 『地方公立校でも「楽園」だった』の後半には、斎藤喜博、林竹二の名前も登場します。
巨摩中に13年間在籍し、音楽を教えた埴原美枝子教諭が後年宮城教育大学の非常勤講師になったことに関連して語られております。
斎藤喜博氏については、先のブログで1970年あたりまで書いております。
kyokoippoppo.hatenablog.com

その後1974年、斉藤氏は林竹二に推されて宮城教育大学授業分析センター専任教授に就任します。
その斉藤氏の要請で、埴原教諭は同大学の非常勤講師になるのです。ここには、林竹二→斎藤喜博→埴原美恵子のつながりが見て取れます。


 3年間の、神奈川での教員生活での一コマ一コマを思い出しながらこの本を読み終えました。
そして、それは懐かしいばかりでなく、今の私に繋がっていることも実感しました。
この家庭を作り、我が子を育て、いまだその子どもたちの心配をし、迷いの中にいる私に。

このようなブログを、書き綴っている私に。