はなぱんださんのお誘いに乗った形で始めた『kyokoの偶偶石(たまたま石)』です。
www.hanapanda.com
「知識という前提を鑑賞者に要求せず、鑑賞者個人のオリジナリティを引き出すことのみを目的」とした現代アートです。
「作者の作意の理解を求めない自然石に対峙することで鑑賞者自らが感じたもの」は、”鑑賞者オリジナルの感性” であり、その存在に気付き深めてもらう』現代アートです。
はなぱんださんが語る『偶偶石』の説明の一部です。
オホーツクの浜で目に留まった石たちを、拾っては持ち帰ってしまう私。
それをどうするか?って・・瓶に入れたり、かごに入れたり、灰皿に並べてあったり・・。
乱れた部屋の中で、乱れ気味に置いてあります。
それらに光を当てようと始めたわけです。
『現代アート』というほどには気負わず、気軽に・・・と。
11記事目を迎えて
これまでに10記事、なんとか絞りだすように綴ってまいりました。
「色が綺麗」「模様が面白い」・・・それだけの思いで拾い上げたものばかりです。
川から浜に流れて来た・・・・そこにストーリを添える形で綴ってきました。
らしい名付けをして、川から浜への時間の中で形作られ、色をまとった
・・・そんなストーリーです。
しかし、はなぱんださんとの コメントのやり取りを通して、ん???むむ!!!!!
と立ち止まったわけです。
はなぱんださんは、私に次のようなコメントを下さいました。
自然石の模様は、誰が描いたというより、焼き物で、「備前焼」は高熱と降りかかった灰が色と模様を作り出したものだったり、「国宝の曜変天目」は焼成の際の高温で何かの結晶が生じてあのような宇宙を思わせる景色が出現しているように、”巨大な窯” で高温と高圧と遥かな年月をかけて生み出された模様であるわけです。描いたという表面的なものでなく、石の中身にまで模様はつながっていて、”焼き物の欠片” に近いものかもしれません。
そしてそれを作り出した ”巨大な窯” とは、言うまでもなく、”地球” です。
石の出所は”地球”という”巨大な釜”である・・。
と。
私に欠けていた視点です。
なるほど・・と思いつつも、私の中にはささやかな抵抗感もあるのです。
自分が表面の色や模様に惹かれただけである・・という事実は今でも変わらないわけで、
この単純な楽しみを、記事にしようと思うあまりに、自分の実態に合わないものに仕立てあげることへの抵抗です。
それでいながら・・この緑の石を~川での生活で緑に憧れ色づいた~というような、これまでのパターンに添ったストーリーに安住する自分ではなくなっているから不思議です。
・・ということで
11記事目で、私はちょいと脱皮。
気負いを削いで、拾った石の紹介をメインにします。
石たちをすべて紹介し終わったら、全ての石を浜に返そうと思います。
石の紹介と人生の店じまいを目的にします。
添える文章はラフにラフにラフに・・・していきます。
偶偶石11・・・ネオン
どこで取り込んだものか?
そもそも自分そのものなのか?
このみどり
ここの赤
「ネオン」と名づけてもらったけれど
ネオンって何だろう?