春うらら
風邪も抜け、やろうと思っていたことのあれやこれやに手をつけた午前中。
その後、ワンコを連れてお散歩。
ざわざわと南風が吹き、春一番の花、福寿草やクロッカスが庭に咲き、ご近所さんも庭仕事。
挨拶をかわします。
春だなあ🏵️
待ちに待った春。
春うるる
午後は骨休めも兼ねて読書タイム。
『ぼくたちに翼があったころ』を読み終えました。
- 作者: タミ・シェム=トヴ,岡本よしろう,樋口範子
- 出版社/メーカー: 福音館書店
- 発売日: 2015/09/20
- メディア: 単行本
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読み終えた時、心の中が、からんと淋しくなってしまいました。
このお話は、ポーランド、ワルシャワに実在した『孤児たちの家』が舞台となっています。
百余人のユダヤ人の少年少女が暮らしておりました。
時代は、1934年から39年。
医師であり、作家でもあった「ヤヌシュ・コルチャック」が設立し、力を注いだその教育は、大変ユニークなものだったそうです。
作者のタミ・シャム=トヴ氏は、コルチャック先生の著作物や、実際の教え子たちの証言集や、高齢ながら存命であった、かつての教え子への取材をもとに、この『家』の生活を物語に仕立てました。
主人公の少年ヤネクは創作上の人物として配されています。
ただひとりの身内である姉に手放され、この家にやってきた盗癖のある少年。
この『家』で、しっかり食べ、学び、失敗をしたり、迷ったりしながらも、友だちや先生との関係を築いてゆきます。
『家』では、子どもの自治による運営がなされ、子どもの、法廷も開かれました。
子ともたちが発行する新聞もありました。
夏には田舎にいき、ミニオリンピックが、開かれたそうです。
その愛と尊厳に満ちた施設が、今から70年以上も前に、実在していたのです。その時代の子どもにとって─家庭に恵まれない貧しい子どもたちであればなおさらーそうした施設は、夢のまた夢であったにちがいありません。
作者によるあとがきより。
姉と共に貧しい暮らしをしていた頃、盗んだ新聞を貪るように読んでいた少年は、『家』にあっては、盗まなくても手に入る新聞に存分にひたることができました。新聞を通して世の中を知ってゆくことになった少年は、受け手でいるばかりではなく、記事を発信することによって世の中に訴えることを学んてゆきます。
当時、色濃くなってきたユダヤ人への差別に対する訴えを記事にまとめるものの、世の中の流れの方が一足早く、その記事検閲にひっかかり、白紙に化けてしまうのです。
そんなある日、姉がヤネクを訪ねてきます。
パレスチナへ逃れるビザが手に入った。いっしょにこの地を出ようと。
「僕はこの家の子どもだ。」
ヤネクは迷います。
しかし、ここでの未来が、既に絶ち切られていることも明白なのです。
ヤネクは『家』を去ることを決めました。
コルチャック先生との別れの一夜を‘’先生への取材‘’という交流で過ごします。
決して記事になることのない取材に先生は応じるのです。
窓から夜明けの光が射したとき、ドクトルが言った。
「さあ、また新しい一日が始まる。ヤネク、最後の、質問をしてくれないか」
ぼくは、ドクトルがなぜ、医療の現場を退いてまで、ぼくたち孤児に関わることになったのかをきいた。
ドクトルは、気力をしぼり出すように、わずかにほほえんだ。
「君さ-君のような子どもたちがいたから。君が、その答えだ」
そして立ち上がり、いつものように大きなガラス窓を開けて、窓辺の餌台につぶ餌をまいた。
物語はこの朝で終わっております。
しかし、あとがきを読み私は知るのです。
この四ヶ月後、ドイツ軍はポーランドに侵攻し、戦争が勃発。
翌年先生と子どもたちは、ワルシャワ・ゲットーに、強制移動させられております。厳しい寒さと飢え、病気の蔓延という劣悪な環境の中、『家』では
学習会や、演劇、音楽会などの文化活動が続けられていたというのですから驚きです。
さらに二年後。
ゲットーでさらに増えた二百名の子どもたちと、数名のスタッフは、家畜用貨車に、乗り込みトレブリンカ強制収容所へと旅立っていったのです。
コルチャック先生だけは、釈放許可証が示され、列車に乗らなくて良いと申し渡されましたが、先生はそれを拒み、子どもたちとともに収容所へ行き、子どもたちと共にガス室に送られたということです。
もう、午後の私は淋しくてしかたありませんでした。窓の外は相変わらずキラキラと春の光。その光が淋しさをさそうのです。
この物語・・・・・先週いっぱい風邪ひきの私を慰めてくれた物語は、最後にため息と、とめどない涙と、なんともいえない淋しさを私に残しました。
コルチャック先生について綴られたブログ見つけましたので、ご紹介。
moonfishwater28.hatenablog.com