コルチャックとピウスツキ兄弟 ⑥

同じ時代に違う理想を追って生きた3人
ヤヌシュ・コルチャック
ブロニスワフ・ピウスツキ
ユゼフ・ピウスツキ
彼らの年譜を並べてみるという試みです。

第一次世界大戦前の1912年に誕生したユダヤ人のための孤児院が「ドム・シェロット」でした。
コルチャックの教育にかける理念をしっかり理解して、実質的にここを支えたのがステファニア・ヴィルチンスカという女性です。彼女はコルチャックが軍医として出征中も、この施設をしっかり守ってくれました。前回は、
1918年に戦争が終わり、ポーランドは念願の独立を果たし、ユゼフ・ピウスツキが初の国家元首となったところまでを記述しました。
終戦の数ヶ月前に、ユゼフの兄ブロニスワフ自死によりその生涯を終えております。

先に進みましょうね。

1919年・・・ポーランド孤児のための施設「ナッシュ・ドム」ができる。
「ナッシュ・ドム」の施設は1919年に、古い家屋から始まったそうです。
大戦後のポーランドは経済的に苦しく、寄付金も集まりにくい状況だったのです。
それでも屋根があるということを安心の糧として、食べ物を調達することを最優先にしての経営が始まりました。
コルチャックは「ドム・シェロット」と「ナッシュ・ドム」のあいだを行ったりたり来たりする生活となりました。
両施設とも経済的に窮乏しており、食べさせるのもやっとの現実でしたが、コルチャックは、高い理想を掲げていました。
二つの孤児院の子どもたちの交流からユダヤ人とポーランド人が互いに理解し合うことを願っていたのでした。

未来の社会に希望が持てるとしたら、それは政治がよくなるということなどてはなく、人間がよくなること

コルチャックはこのように語り、次のような教育に対する考え方を貫きました。

世界を改革するのは教育を改革することなのです。子どもたちに無理に教えるのではなく、一人ひとりの個性を壊さないように、その子どもが向上していくことだと思います。教育学者が理論を上から押しつけるのがいちばんよくないのです。

そしてまた・・・戦争が始まります。

1920年・・・ポーランドソビエト戦争
かつてポーランド領であった地域を取り戻そうと独立間もないポーランドソ連邦にしかけた戦争です。短期間で終結ポーランドは勝利します。

(ところで、この戦争が起きた当時、ソビエト連邦はまだ創設されていません。ソビエト連邦の創設は1922年できごと。
前回の記事では、このことで書き間違えがあり、手直ししました。ソビエト連邦ソビエト政権に直しました。
ソビエト連邦樹立の起源は第一次世界大戦終戦直前の革命時で間違いはなのですが、このときはまだソビエト連邦は確立していなかったのです。
・・・と書きつつもほとんど理解できていないワタクシ・・。)

さて、苦しい言い訳を終えましたので、さらに記述を進めましょう。

ポーランドソビエト戦争はナッシュ・ドム設立のわずか一年後に始まっています。コルチャックは今度はポーランド軍の軍医として軍の病院に勤務することとなりました。
この戦争中にコルチャックは発疹チフスに感染、ホームに帰れば子どもたちに感染させてしまいます。
彼は一時母親の元で看病を受けました。しかし、母親が同じ病に感染し命を落としてしまうのです。
コルチャックのショックは大きく自殺を考えたほどだったそうです。



1920年・・・戦争終結ポーランドは勝利を勝ち取る。
    新国境が決まりポーランドは東ヨーロッパの大国となった

1922年・・・ロシアの共産主義者たちは国内の混乱を鎮圧して「ソビエト連邦」を創設。
同年・・・・ポーランド国会は新憲法を制定。
1923年・・・・ユゼフ国家主席の地位を辞任。
憲法では議会の力を強め、大統領の権限を抑えたため、ユゼフは大統領に立候補せず、国家主席の地位からも退きました。


1924年・・・世界で初めての子どもの権利宣言「ジュネーブ宣言」が国際連盟で採択。

度重なる戦争により生じた戦災孤児たちを救うべく採択された宣言でしたが、
この内容、姿勢に対してコルチャック次のような批判を寄せました。

ジュネーブの立法者たちは義務と権利を混同してしまった。宣言の論調は主張ではなく説得であり、善意への訴え、優しさへのお願いにすぎない。

(『子どもの権利の尊重』1929年)より


ポーランドの指導者たちはポーランドの再建につとめたものの、政党間の争いが政府を弱体化させ、物価は高騰し、失業が広がりました。
政治的な危機が深刻化し、政治の機能は麻痺状態に陥ってしまいます。

1926年・・・ユゼフはクーデターを起こし政権に復帰。    
    自分の親友を総理大臣に据えた。

1926年5月12日、ピウスツキはクーデター「五月革命」を起こす。絶大な人気により、政府内にもクーデターの協力者が出る状態であったが、政府側もよく抵抗した。結局、鉄道労働者の協力があったため、クーデター軍が数日で勝利した。犠牲者は500人程度だといわれている。ピウスツキは大統領にはならず、国防相と首相の立場から実権を握った。
この独裁期間は反対者を収監するなど、ファシスト的な独裁ではあったが、政治腐敗の一掃を行ったため、サナツィア(清浄化)体制と呼ばれている。ピウスツキは反ユダヤ主義に否定的で、かつてのポーランド・リトアニア共和国(ヨーロッパ初の成文憲法5月3日憲法」でその民主主義の理念が頂点に達した)のようにポーランドを諸民族が融和するコスモポリタン多民族国家として育てようと考えており、この点でサナツィア体制はファシズムとは異なる。そのためピウスツキは国内のユダヤ人からも支持を獲得した。

Wikipediaより)

ユゼフは独裁的ではありましたが、反ユダヤ主義に否定的であり、他民族国家を理想としていたのですね。
ユゼフ政権復帰の年、ユゼフの妻アレクサンド・ピウスツキがナッシュ・ドム協会のメンバーとなり、多大な資金援助をしております。

資金援助については、下記の資料で見つけました。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/taikaip/75/0/75_120/_pdf


1933年・・・ドイツでナチス政権が樹立アドルフ・ヒットラーが首相となる。

1935年・・・・ユゼフ・ピウスツキ死亡
同年・・・・ナチスユダヤ人のドイツ市民権を奪う「ニュルンベルク法」を公布。

1935年、コルチャックの尊敬していた偉大な愛国主義者ピウスツキが死去、彼の心は大きな支えを失いました。ピウスツキは他民族国家を認め、ユダヤ人たちからも尊敬されていた人物でした。

『コルチャック先生』より

コルチャック先生 (岩波ジュニア新書 (256))

コルチャック先生 (岩波ジュニア新書 (256))

 私の興味のままに書いた記事でした。
『熱源』を読んだことから発した興味が続いているのです。
『興味の流れのままに』のカテゴリでこんなに書くことになろうとは、自分でも驚いておりますよ!!

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