『熱源』に登場した
「ブロニスワフ・ピウスツキ」と、その弟
「ユゼフ・ピウスツキ」さらには、
「ヤヌシュ・コルチャック」の年譜を並べてみる試みです。
主にコルチャックの人生を、柱にして書き進めるつもりです。
参考にするものは図書館で借りた『コルチャック先生』やWikipediaなどのネット情報です。
誤りのないように気をつけますが、見落としや誤認の可能性もありますことを、予めお断りしておきましょう。
- 作者:近藤 康子
- 発売日: 1995/06/20
- メディア: 新書
とにもかくにも、自分の興味のみで書き残すものですのでご自由にスルーして下さいませね!
・・と書きつつも、せっかくこちらを開いて下さった方に、せめて当地の本日の夕日を見ていただきましょう。
では始めましょう
前回の続きから、いきなり書いてゆきます。
過去記事のみポチッとな・・。
kyokoippoppo.hatenablog.com
* * *
学生時代のコルチャックは、ポーランドの貧民街を歩いては、子どもたちに飴をやったりお話を聞かせてやったりして交流する一風変わった青年でした。
ワルシャワ慈善協会の活動にも携わり‘’’子どもと労働者のための無料図書館‘’や‘’非合法の学校‘’で活動します。
1899年・・・この活動中突然の投獄。
このような活動が偏った(反体制的な)思想の元で活動していると誹謗中傷されたのです。
幸いコルチャックはすぐに釈放されました。
社会の不正と戦う意志をはっきり持っていたコルチャックですが、特定の政治団体のメンバーになったことはありません。
同年・・・・・ピウスツキはウラジオストクへ。
(パリ博覧会のための資料を提出するため)
北方民族との交流と研究へ心を傾けてきたピウスツキの仕事の成果は、貴重な資料となったのです。
1900年・・・ 22歳のコルチャックは、ルポルタージュ、及び評論『ワルシャワの貧しさ』を発表。
「子どもはひとりの人間として重んじられるべき存在であり、これを見すごしては」ならないという彼の「人権」に対する考え方の素地がすでにうかがえます。
同年・・・・・ユゼフ、政府により投獄。
コルチャックにしろ、ユゼフにしろその時代は、社会主義的と思われる活動をして目をつけられたものは、いともたやすく投獄されてしまったようです。
この時ユゼフは、発狂したとみせかけ、サンクトペテルブルクの精神病院へ移送されたところを脱走します。
フィクション映画ばりの脱出劇ですね。
1902年・・・ブロニスワフ、アイヌとウィルタの研究の調査のため樺太へ戻り、写真機と蝋管蓄音機を携えて資料収集を行う。
同年農民身分となる。
年末には、樺太南部にある集落・アイでアイヌ首長バフンケの姪チュフサンマと結婚。
1904年・・・コルチャックワルシャワにある子ども病院に勤務。
同年・・・日露戦争勃発
今回はここまで・・・。
気長に進めてゆきましょう。