廃液によって
北国に春が来たと思ったら、あっという間に夏至が過ぎ、もう日は短くなってゆくのです。
夏を実感する前に秋が始まるようで、何ともやりきれません。
しかしこれは、冬本番の前には日が長くなり春の準備が始まる安堵とセットのもの。
そう言い聞かせて過ごすわけです。
我が家の庭のライラックの花房は茶色に枯れ、今は鉄線が盛りです。
* * *
急ぎ旅ではないのだ、とつぶやきながら戦後の、主に子どもを取り巻く事柄についてあれやこれやと綴っております。
参考にしているのが、フォト・ルポルタージュ『子どもやがて悲しき50年』です。
高度経済成長期の10年間は「疾走する10年」と、題されております。「三里塚闘争」に続くページでは、いよいよ恐ろしい姿を現した「公害」についてが掲載されています。
kyokoippoppo.hatenablog.com
その中の1ページ、
胎児性水俣病の子どもを回診する医師の写真です。解説は付されてないのでこれを掲載した編者の意図はわかりません。
ただ私はこれを見ると何ともいえない切ない気持ちになるのです。皆さんはいかがでしようか?
・・・・と言っても、このブログを読んで下さる方は極少数ですので、皆さんは?と言う書き方は大げさですな・・・
はい。ご覧になった方、いかがでしようか?
そうです。院長先生の手が後ろ手に組まれており、見えないことに起因する違和感なのです。
顔は温和に笑っておられるけれど、手は退けており、少女に触れようとしていないと感じるのです。
取り巻く周りの医師も同様で、少女は視線をあらぬ方に向け、どこにも救いのない孤独の中をさまよっているように感じるのです。
もちろんこれは事実と違うかもしれません。たまたまこの場面が切り取られたに過ぎず、この前後にこの医師の手は少女に差しのばされ、触れられていたのかもしれません。
私は単にこの一枚の印象を語りました。
しかし、この印象は、「水俣病」に対する企業や政府の対処にまで拡大してみたとき、つまりこの少女を「水俣病に苦しむ人々」とみて、周りを「それを取り囲む社会」とみるとき、ぴったりと重なってしまうのです。
水俣病の症状はまず、魚を食べた猫やカラスなどの小動物に表れました。それが1952年頃。
そのうち主に漁師の家族に同様の症状があらわれはじめ、死に至る者までいたのです。
56年にはこの病が公式に発表され、翌年発生した地名をとって「水俣病」と命名されました。
当時の「新日本窒素肥料」(現在のチッソ)が未処理のまま海に流した廃液が原因になっている可能性が取り沙汰されながらも、証拠が立証されないことを理由に1968年まで流し続けられたのです。
工場の対処のひどさに、唖然とするばかりですが、「成長」のキーワードのもと、そもそも後戻りできないシステムが出来上がっていたのでしょう。
もう、目の前の、震え、痛み、悶え、話せぬ、歩けぬ人々を見ても、見ぬふりをするしか選択肢が無い状況になっていたのでしょう。
地元には「チッソ」に雇われ暮らす人も大勢いて、住民の分断も起きていたということ。
現在の「原発」に通じる課題がもうここに芽生えいいますね。kokocara.pal-system.co.jp
m.huffingtonpost.jp
四大公害は、この水俣病をはじめとし、第二水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくがあります。
第二水俣病は「新潟水俣病」ともいわれ、水俣と同じ、メチル水銀化合物が原因で発生しております。昭和電工鹿瀬工場の廃液が原因でした。
「昭和電工」は父の職場でした。現場は川崎でしたが、母は「昭和電工が公害を起こしたから、その後給料も上がらないし、ボーナスも安い。」
と時々ぼやいておりました。
痛ましい公害について理解もし、「大変な病だ、可哀想だ。」と言いつつも、生活実感としては、「あーあ給料が上がらない」というところに留まってしまうその心情は、常にお金のことを考えて暮らしている私にも理解できるリアルな実感なのです。恥ずかしいことながら。
学校は水俣の海になった
実に、私はこの林竹二の言葉にたどりつくために、この一連のブログを綴っております。
多くの子どもたちが通う学校が水俣の海であるというこの強烈な言葉は、当時から時が経ち、林氏を知る人も少なくなった今、もう無価値なものなのでしょうか?
その答えなど持ち合わせていないけど、いえ、いないからこそポチポチとまだ旅を続けるわけなのです。