林竹二の言葉と私

・・・・・ここ数年来、私は、学校教育が荒廃をきわめているということを感じて、そのことを口にしたり、文字に書いたりしております。いわゆる良い学校にはいることがすなわちそのその子どもの幸福を保証することであるような考え方が、学校という世界にまかりとおっています。そういう低俗な人生観・価値観と戦う意志を教師たちが捨ててしまっているという事実が、学校教育のとめどない荒廃につながっているように思えてならないのですが、どうでしょうか。
 受験戦争に勝ちぬいてきた学生には、いわゆる落ちこぼれよりもはなはだしい悲惨さがあるように思えてならないのです。エリートコースを進んでいる人ぼど、根底から人間性が破壊されてしまっているのです。しかも、破壊されているのは人間性だけではない。ほんとうに学ぶ能力も、学ぶ意志も犠牲にしなければ、入試の難関を突破して大学にはいることができないのです。

『いま授業を変えなければ子どもは救われない』(1981年発行 太郎次郎社)より


 前回のブログでは林竹二の著書に出会い、その理念に強く憧れたものの、小学校という職場で、並みの仕事すらおぼつかなかった青春期の私について書きました。
kyokoippoppo.hatenablog.com

 先生の仕事を3年で退職し、私は北海道で新しい生活を始めることになります。
川崎生まれの私は、この地で三人の道産子を産みました。

 子どもをかわいがり、よく相手をしてくれた自分の母親と同じように、私は子どもをかわいがり、よく相手をしてやりました。
母親が私にくれた栄養を自分の子どもに差し出すことができました。幸せなことだと思います。
 しかし、こと子どもの教育に関しては、母とは違う姿勢でのぞんだのです。
 何故なのか!それについては、過去ブログを読んでいただけるとうれしいです。
kyokoippoppo.hatenablog.com

 私が、子どもの、勉強や成績に強くこだわらなかったのは、自分の育ちの影響もこのようにあったのてすが、先にあげた林竹二の言葉の影響もありました。
 林氏は「親は子どもの勉強に無頓着でいて良い」などとは言ってはいないのですがね。


 教員の仕事のような拘束がない中で私は、
点数や学校が求める成績などにはたいした価値がないのだ。
と、ことさらに思うことで、再び林竹二の理念に近づこうとしたのでしょう。

いわゆる良い学校にはいることがすなわちそのその子どもの幸福を保証することであるような考え方
は、低俗な人生観・価値観
であり、
人の幸せはそこには無いという思いは美しく、本物のように思えました。
また、環境的にも、中学受験などの選択肢が誰の胸にも浮かばない地域での子育てでした。

長男は1年生のときこんなテストを持ち帰りました。生活科で、冬支度について問われたものです。

テストというものがいかなるものか、全く分かっておらず、気にもかけていない子どもであったことがわかります。
私はそれを、かわいいなあ、愉快だなあと受け止めました。
しかもその写真をこのブログに貼り付けることができたということは、それを大事に保存していたからにほかなりません。
(これは、同時進行で書いているもうひとつのテーマ『我が家のお片付け』編にも関連してきますね。)

すとうぶにておのけている・・・おお!のっけているわ!
ふくおさわてる・・・・・・・・・・・・おお!さわっているわ!
あっはっは・・・・・終了
こんな感じだったのです。



 林竹二は、授業実践のたびに子どもたちに感想文を書かせました。
学校での学習にかなりの困難をかかえ、
「落ちこぼれ」であるとか、ひどくなると「知恵遅れ」などど、ととらえられている児童の拙い作文に目を止め、その文章から、その子の学びに対する渇望や、その子が授業の中で精一杯考え、喜びをもって学んだことを指摘するのです。

 林氏はこういう子どもたちの持つ宝を語るのです。
学校での成績に関わらず、子どもは深いところに宝をしまいこんでいる。
と断言するのです。

一見価値のあるようにみえる、良い成績や良い点数というものを持たない子どもたちが見せるその宝ものは、より貴重な存在として林竹二に認められるように感じたのです。

私は、一見価値のあるようなものに惑わされたくないと思ったのです。
我が子も持っているはずの‘’宝もの‘’をそのようなもので曇らせれ、汚されてはならないという気持ちすら持ってしまったのです。
しかし、宝ものはしまいこまれているという。
ではそれを掘り起こすとなると、具体的に誰がどんな手助けをすれば良いのでしょう。
分からないまま、私の子育ては月日を重ねていきました。