狐はね…

 私がお邪魔するブログにて、
始まりの木』についてを話題にする方がおられたので、私も…と手に取り読んでいるところです。

民俗学を真摯に研究する、頑固で偏屈な民族学者「古屋」と、門下の院生「千佳」のフィールドワークを物語った作品です。
現代にかろうじて残されている「民俗学的な聖地」を尋ねる二人。
そこで織りなされる人との交流、さらには人ならざるものとの交流が描かれています。

 古くから自然の中や、またその営みの中に神聖なものを見出してきた日本の人たち。
地域のなかで守られてきた風習や、生活の智慧を大切に伝えてもきたのです。
しかしそれらは、産業の発達、経済優先の生き方、成長のために走り続ける日々の中で急速に輪郭を失い、朧げにかすみ、姿を消しつつあるのです。
それらに価値を見いだし研究したとて、就職には全く貢献しない。
それを知りつつ、その魅力につかまってしまった稀有な人たちが登場する物語でした。


 本のページを進めながら、はるか昔の小さな出来事が思い出されました。
まだ長男が生まれる前、もしくはお腹にいた頃ですので、40年も前のことになります。
その頃の住まいは町営住宅。
粗末な四件長屋でした。
隣りには一人暮らしのおばあさんが住んでいました。
「お◯じ」さんという変わったお名前の方でした。
賢く物知りなご老人でした。
どんなきっかけだったか?交流が始まりましてね、時々お邪魔してはお茶を飲み飲み話を交わしたのです。
ある時、お◯じさんは、道に迷ったときの話をされて、
「狐に化かされた。」
そう言ったのでした。

私は
「狐ってだますんですか?」
と聞いたのです。
するとお◯じさんは、深く深く頷いて、
「狐はね…だますよ。」
とゆっくりと答えたのです。
その確信に満ちたお◯じさんの声がとても印象深く、記憶に強く残っているのです。
『始まりの木』に狐にからむ話は出でこないのですが、そんなことを思い出したのです。
興味が向いて「狐」「化ける」と検索したところ次のような興味深い記事を見つけました。
news.kodansha.co.jp
一部を下記に貼りました。

内山さんは単なる“自然賛歌”“自然に還れ”といっているわけではありません。私たちを包み込む自然が同時に“荒ぶる神”であることを忘れてはいません。また「日本の自然は一面では確かに豊かな自然であるけれど、他面ではその改造なしには安定した村も田畑も築けない厄介な自然」であることもここに記されています。そしてその自然との交流のなかで村の在り方や、宗教なども生まれてきたのです。
このような多面的な自然を失いはじめたのが1965年でした。それを象徴するのが「キツネにだまされなくなった」という“事件”です。
そしてさらに内山さんは思索を続けます。「長い間、人がキツネにだまされつづけたということは、キツネにだまされた歴史が存在してきたと考えていいだろう」と……。それは「自然や生命の歴史」であり、それに包まれた「人間史」の発見です。

これはおもしろそうだ!!
図書館にリクエスト決定だ!!


 話は少々飛びますが・・私が、スピリチュアル的なものへの関心があるから余計にかとは思いますが、今は今なりに、「神様」や「見えない存在」への関心が高まっていると感じます。
ほら、雲の形に龍神様を感じたり…。
「風の時代」が話題となったり・・。
現代の人だって、そういうものと無縁って訳ではないと感じます。

ただ、ものによっては
巨万の富とか、
成功者とか、
何でも望み通りとか、
一直線に分かりやすいご利益に誘導するようなものもあって、そうなるとこれは民俗学で語られるような人々の信仰とは別物ですよね。

そう、本書の中にまるでスタンプラリーするように、車で寺に押しかけご朱印集めをする若者が出できましたが、このような向き合い方にならないように気をつけなくては…と私は思うわけなのです。
現代に生きる私たち・・・・。
神や仏、自然霊や妖精、聖霊たちとどのように向き合うことが可能なのかな?
目を向けていきたいです。

 
 最後に、美しい月が浮かぶ2月12日の夕空をここに残したいと思います。
新月後の月はどんどん太くなっていて、ここで貼らないと機会を逃してしまいそうなので・・。
再生直後の細い月の姿、キャッチできましたでしょうか?