現在手元にある本たちです。
『ラウリ・クースクを探して』(記事には残しませんが良書でしたよ。)
と『夜明けを待つ』は読了。
次なる1冊『始まりの木』を手元に寄せる直前の私です。
その前に、ノンフィクション作家佐々涼子氏の『夜明けを待つ』にて、少々足を止めることにしました。
心に残った文章を切り取って残しておきたいのです。
感想文未満のメモ的な記事となります。
この作家さんのことは知識がなく、本書はたまたま図書館で目に入ったために借りてきました。
生と死を見つめ続けてきたノンフィクション作家のエッセイとルポルタージュ作品集・・・
なるほど良いかも、という気分で。
手元に寄せてから、著者の紹介欄を読み、『紙をつなげ!』を以前読んでいたことを思い出しました。
『夜明けを待つ』
第1章はエッセイ多数
第2章はルポルタージュ9作品が収められています。
エッセイはどれも滋味深く味わうことができました。
たとえ私がいくら死んでしまいたくとも、体は生きているだろうし、私がまだ生きたいと、いくら願っても、時が満ちれば死んでいく。そう思うと、私たちが「私」と思って後生大事にしているものには実体などなく、「私」というのは、私たちとはまったく別の都合で動いている世界がつかのま見る、短い夢のようなものなのかもしれない。
現実だけを見つめて書いてこられた佐々氏が語る言葉に、スピリチュアル的な要素を感じました。
彼女は「禅」に興味を持ち、福井県の清涼山天龍寺で、「初心指導」に参加し、その体験もルポルタージュ作品に残していらっしゃいます。
「須らく回光返照の退歩を学ぶべし」
禅はこの先の未来を指し示すことができるだろうか。「退歩」することもまたひとつの進歩なのだと認められるほど、はたして社会は成熟することができるのだろうか。
人の生き様を見れば見るほど、不可思議な世界が現れ、「生きる」ことの中にあるスピリチュアリティに触れることになるのでしょうか?
禅、仏教、宗教に興味を持ち、それに関する体験も豊富な佐々氏です。
しかし、彼女の足は常に現実という地面に据えられています。
ある時彼女は、バングラデシュの長老に会う機会に恵まれます。
どんな智慧を授かることか?と期待を寄せる佐々氏。
長老はどうしても伝えたいことがあると言う。
彼女はひざまずきその言葉を待ちました。
その佐々氏に対し長老は、‘’このうえなく所帯じみた願い‘’(ドネーション)を寄せたのでした。
人は霞を食べて生きてはいない。虚構の中で、ひとかどの人物になったような気がしているとすれば、それは錯覚だ。
私は、祈り方すら知らない人の中に、奇跡を見る。
ルポでは、移民たちの現状や、それを受け入れる日本の現実を垣間見ることができました。
今やそれ無しでは経済が成り立たない日本の現実。
そこへ技能実習という名目でやってくる外国の人たち。
日本語学校での教師の奮闘や、彼ら彼女らが働く現場の現実。
これらも大変興味深かったです。
ここに収められた全ての作品を読み終え、あとがきへ。
ええ!?
佐々涼子の命がわずかしか残されていないという事実を知ることとなります。
二年前の著書『エンド・オブ・ライフ』では、在宅の看取りをテーマに訪問看護師の故・森山文則さんの終末期を書かせてもらったが、何の運命のいたずらか、今度は私が終末期の当事者となった。
彼女は希少ガンであるグリオーマに罹ってしまったのです。
本書の中で
私がまだ生きたいと、いくら願っても、時が満ちれば死んでいく。
と綴った佐々氏ですが、まさしくそれを体現するようにご自分の現実を静かに受け止めていらっしゃるように感じます。
佐々涼子氏の未読の作品も、追い追い読んでいきたいです。
そして今晩からはワクワク・・・『始まりの木』を開きます。
* * * *
2月9日朝の雲です。
龍の姿というには首から後があいまいですが、私が
「ぬぬ!」
とキャッチした痕跡を大事にしたく、ここに残します。
2匹の龍が西を向いております。