横浜
私は川崎で産まれましたが、物心つく頃には、横浜におり、そこで幼少期から18歳までを過ごしました。
それを言うと、地元の方に、「まあ!都会から!」
と言われますが、住まいのあった場所は横浜駅(港)より内陸部で、周りはほのぼのした風景でした。
住宅地の周りには田んぼと畑と雑木林が点在し、田んぼにはレンゲが咲き、畑周辺には肥やしの匂いが漂っていました。
横浜駅は身近な駅でした。
東口と西口を繋ぐ連絡道がありまして、そこは薄暗いトンネルのようでした。その入口に足を踏み入れると、ハーモニカのもの悲しい音色が聞こえてきました。復員した傷夷兵が、ハーモニカを吹いているのです。手足を失くした者は四つん這いになり、じっと動かず頭を下げておりました。
東口は開発途上で、商業施設はほとんど無かったと記憶しています。
これが幼少期の記憶に残る横浜の風景です。
(写真は駅西口のものでしょう。1964年開催のオリンピックの旗が掲げられていますね。)
おかあさん
さて、子どもにとって、産まれ育った「家」は環境の全てといってもよく、「世界」そのものです。
子どもたちはその世界で栄養をもらい、時に毒ももらいながら育ちます。
私は幸せな環境に、産まれ落ちることができたといえましよう。
母は全力で私たち子どもをかわいがってくれました。遊び相手もしてくれました。夜は必ずお話を読んでくれましたし、時にはぬいぐるみを並べて人形劇までしてくれました。
喜怒哀楽がはっきりしていて、おかしいときは
「ぶはあ!」
と吹き出して、床に突っ伏して笑う。
そんな母でした。
父は子育てにあまりかかわりませんでした。
母の印象が強い分、自然と目立たない立場にいるしかなかったのではないでしようか。
肉親に縁の薄かったその境遇も、いくらか父のキャラクターに影響していたのかもしれません。
かかわりは薄かったけれど、子どもたちを脅かすこともなく、ただ静かに居てくれた人です。
私は育った家庭から豊かな栄養をもらったと感じています。しかし、
「光と影」と言われるように、母のその強い個性=光は、くっきりとした影も作ったのです。
「今から私が書くことを、どうか母さんへの批判だと捉えて取り乱さないで下さいね。」
私はそうつぶやくものの、もう母はいないのです。
そう、いないから私はこうやって書けるのです。
母が生きていたら、書けません。
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母は、教育にも大変熱心でした。
チラシのウラに、漢字の書き取り問題や計算問題を書き、そんな手作り問題を私たちにやらせるのでした。
母の前に立ち、国語の本を読み、音読の練習もたくさんさせられました。
だから小学校の課題で困るということはありませんでした。母のおかげです。
でも、子どもの私は、それを取り立ててありがたいこととは思いませんでした。
他の家のことを知らないのですから、自分の親が特別なのだと感じることはなく、与えられた課題をありがたがることも批判することもなく、淡々とやるだけでした。
勉強がわからなくで困ることはなかったとはいえ、単元テストで、常に満点というわけにはいきません。ケアレスミスもあれば、難しい問題で躓くことだってありました。そんなテストが返された時、私の帰宅の足取りは重くなりました。
「今日は、叱られるなあ。」
・ ・ ・
テストの結果をしげしげながめる母の表情が強ばるのがわかります。
目が怒りの炎に燃えています。
「あれだけやらせたのに。」・・・母にしてみればそんな思いがムラムラと沸き上がるのでしよう。
「何故見直しをしなかった!」
「見直しだよ!み・な・お・し」
大きな声で怒鳴り、テストの余白に鉛筆で「みなおし」と書き、それをなぞり、なぞり、なぞり、丸で囲み、自分のその行為で興奮はいや増し、しまいに芯が折れる程の勢いでカンカンと「みなおし」と書いた紙を刺し、それをしなかった私を責めるのです。
見直ししなかったわけではないのです。
でも、どうでしょうか?小学生が、やっとやり終えた問題を再び白紙の心意気でやり直せるものでしょうか?私はざっと眺め、裏の余白に(昔のテストは裏は余白だったよな。)女の子の絵など描いてしまうのです。
「こんなの!」母は吐き捨てるように叫ぶのです。
「書いてるヒマがあったら見直しなさいよ💢💢💢💢💨」
そもそも、テストで良い点を取りたいのは私ではなくて、実は母だったのです。
だからもう、「叱られる私」と「叱る母」の構図は出来上がっていたわけです。
テストの結果で怒らない母親が存在することを友達の会話から知れば、「羨ましいなあ。」と心から思った私です。
「親は子どもが可愛くて怒るのだし、後々困らないように忠告する親の言葉に間違いは無い。」
というのが母の持論でした。
確かにそんな母から私はたっぷりの栄養をもらいました。でも、毒と言っては言葉が悪いけれど、私にとって益にならなかったものも、与えられたと思うのです。
私は、自分の行動を親の価値観に添うようにコントロールしましたし、自分の感情をありのままに出すことが、できませんでした。
私は何が好きなのか、何が欲しいのか?いつも母のフィルターを通さないと判断力出来ないようになっていました。
これは私が、大人になってから気づいたことです。子どもの頃は意識できませんでした。
でも、身体は反応し、首をかしげたり、まばたきが増えたりしたものです。
・・・・これが「チック」と呼ばれるものであるということも、大人になってから知りました。
夫とは東京で知り合いましたが、彼が北海道の出身であることは、私にとっては大きな要素だったと思います。
私は母の影響の及ばない所で生きることを、無意識に求めたのでしょう。
結婚後の暮らしにおいて、この地理的な条件は、それをいくらかは叶えてくれました。
しかし、「私」というものが、母の教育や子ども時代の生活の産物として、すでにできあがっているわけです。
「私の子育て」に、「母の影響」が組み込まれていくのは当然のなりゆきと言えましょう。
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私の子育て
私は三人の子どもたちを、「かわいい かわいい」と思って育てました。たくさん相手をして、寝る前には本を読んでやりました。母が私にくれたありがたい栄養を、そのまま我が子たちに与えることかてきたのです。
子どもに何としても必要なこの栄養を差し出すことができた私は、幸せ者です。
「ありがとう、おかあさん。」
そして、もう一つ。
私は子どもが持ち帰るテストの結果で叱ることをしませんでした。
教育熱心な親ではありませんでした。
さて・・・・・・私はこれで良かったのでしょうか?
親がしたことの、反対のことをしようとするのは、決して親から自由になったことを意味しないということを聞いたことがあります。
「反対のことを!反対のことを!」
という姿勢は、たとえ逆のベクトルをもっていても、そこに捕われているということに変わりはないからです。
結果・・・・・・・我が子たちの学校での有り様があり、成績があり、進路があり、今のそれぞれの生活があります。
みんな何だか苦しそう。
生活が。
私もまた、毒を飲ませたのかもしれません。
それにしても、親に対する子どもの立場は複雑です。大いなる感謝を抱きながらも、負わされたキズは痕跡となって残り、それを携えて生きていかなければなりません。
しかしながらそれは、しっかり向き合えばは貴重な学びになり、それによってその人の宝になる可能性も秘めています。
どうか我が子たちよ、苦しみの中から糧を見つけておくれ、どうか諦めず道を進んで歩いていっておくれ。
そう願わずにはおられません。
以前投稿したカトー・コーキ氏の「しんさいニート」。
kyokoippoppo.hatenablog.com
関連するので貼っておきますね。
長文読んで下さりありがとうごさいます。