おまけの記事

 本音を言えば、私の関心事は自分の老後。
我が子たちの安寧。
もちろん、自分だけが!とか
我が子だけが!
とは思っていませんが、それは普通の感覚の範囲でそう思っているに過ぎません。
そんな私ですので、「反戦」を話題にするのは、身の丈に合わない行動だったかのもしれません。
確たる意見も持たない私が、綴るにはテーマが大きすぎたか?
そんな気持ちにもなりながらも、ようやく8曲を紹介し、まつわる話題を書き終えることができました。

 身の丈云々とはいえ、自分の老後も、子どもたちの安寧も、国内が平和であることの大前提の上に成り立つわけですから、私が「平和」を考えたり語ることは許されるはずです。
平均的なひとりの国民である私が、今知ったこと、感じたこととして書き残したまでのこと。
やって良かったな!
と思っていますよ。

 さて、最後のおまけの記事です。
世界の反戦歌として名高い
花はどこへいった
にまつわる動画をみつけたのです。
ここに残しておきたくなりました。
www.youtube.com

花はどこへいった

 以下は動画の内容とネット内で知った内容を要約したものです。

 『Where have all the flowers gone?』(『花はどこへいった』)は、アメリカンフォークの父とも形容されるピート・シーガーの作詞作曲で生まれました。(1955年)
彼の代表作ともいえる作品です。
ただし、シーガーによる作詞は、3番まで。
その後、ジョー・ヒッカーソンが4番と5番の歌詞を書き加え、それにより反戦歌としての位置づけが確立しましたので、シーガーとヒッカーソンの共作ともいえます。

1961年キングストン・トリオがこの曲を歌いヒットさせます。
その時点では「反戦」の意味は無く、彼らは”美しい人生の歌”としてこれを歌っていました。

1962年に、ピーター・ポール&マリーによってもカバーされました。
フォークソング反戦運動に連動して歌われるようになった時期ではありましたが、この動画の中で、マリー(私が知る、レコードジャケットの姿から激変!!すっかり太っていました)は次のように語っております。
反戦歌として歌ってはいたけれど、当時リアルな戦争の実感は無かった

この曲がベトナム戦争と分かちがたく結び付いたのきっかけは、68年の「テト攻勢だと伝えられています。

1965年から始まったベトナム戦争は、予想に反して長期化。
68年、解放戦線によるテト攻勢からアメリカ軍の後退が始まります。
戦場がいかに悲惨なものかを伝える報道写真や映像が、米国民の目に触れるようになり、世論は急激に反戦に転じていきました。
さらに、68年3月、ケサン海軍基地で兵士たちが『花はどこへ行った』を歌う様子が放映され、この歌とベトナム戦争との結びつきは決定的になったのです。

 ピート・シーガーによって生み出された『Where have all the flowers gone?』ですが、これはロシアの作家、ミハイル・ショーロホフの『静かなドン』の作品に出てくる、コサックの民謡(子守唄)の歌詞にヒントを得て作られたのだそうです。

『静かなドン』は、ロシアの小説家、ミハイル・ショーロホフの大河小説。
1926年から1940年の15年間にわたって発表された。第一次世界大戦ロシア革命に翻弄された黒海沿岸のドン地方に生きるコサック達の、力強くも物悲しい生きざまを描いている。

 世界の反戦歌として広がったこの歌の源が、ロシアの小説『静かなドン』の中にある子守唄だったということが印象的でした。
1時間以上に渡る動画を見た末に、この反戦歌の源が、今まさに無謀なウクライナへの侵攻(戦争)を続けてやめないロシアであることに、何ともいえない感慨を抱いたのです。

さらには、この戦争が、アメリカが短期で終結すると見込んだものの長期化、泥沼化し、多くの犠牲を生んだベトナム戦争と似た図式のようにも感じたのでした。

長編の動画ですが、見応えのあるものでした。
お時間が許しましたら是非ご視聴下さいませ。

歴史に学ぼう

 さらに残しておきたいのが、
切り抜き、写真に収めておいた北海道新聞の論説です。
1月26日のものです。

全文が貴重なものに思え、そのまま畳み込むことができず写真に収めたもの。
目を通していただければ幸いです。

『HEIWAの鐘』

 この度の連載を閉じるに当たって反戦のメッセージを伝える合唱曲をご紹介。
『HEIWAの鐘』。
MELOGAPPAさんによるものです。


www.youtube.com

 本日、13日。
春一番を思わせる風が吹いております。
一日中プラスの気温。
雪解けが進んでいます。