Rising・Sun~風の勲章・・・浜田省吾

ようやくここまで

 反戦歌のご紹介!!
選曲はTAISEI・AKIBA氏のこの動画を手引きとしております。
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 前回の『アジアの片隅で』で、8曲のうちの5曲までたどり着きました。
記事を書き始めてから仕上げるまでに数日かかります。
ネットに釣り糸を垂れて引き上げるだけの作業・・それだけのことなのですが、釣り糸にひっかかってくる情報が膨大でして、我がバケツに入れるものと、ネット空間という大海に戻すものの選別を行わなければなりません。

バケツに入れ手元に置いた情報たちを、いくらかでも体裁よく陳列しなければなりません。
多少なりとも我が口上も添えてお見せしようとなると、時間と気持ちの両方がそろったときに、ちびちびと書き進め、ようやく仕上がる・・・そんな状態です。

そのように綴ってきてようやく半分。
さて、ちょい重い腰をあげて6曲目に参りましょう。

浜田省吾

 浜田省吾・・名前は知っているといったくらいの情報しか持ち合わせておりません。
10代後半から20代の私・・・いったい何を聴いて暮していたのでしょう。
良い思い出の少ない短大時代~苦節の教員時代・・・「NSP」「甲斐バンド」「オフ・コース」「井上陽水」「サザン」・・・このあたりか?
PPM(ピーター・ポール&マリー)も聴きましたが、メッセージを強く意識してはいませんでした。
(Peter, Paul and Maryは、1960年代アメリカのフォークグループの一つ。トリオ。60年代にベトナム反戦のメッセージを全世界に送り出した。)

小田和正の従兄弟にあたる少年が担任したクラスに在籍していました。


kyokoippoppo.hatenablog.com

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 じつは、この頃大好きな歌い手さんが現れました。
この音楽に出会わなければ今の私はいないでしょうネ。
これはいつか別の機会に書く・・・かも・・・しれないかも・・・です。

過去記事まで貼り付けて、自分を先に語ってしまいました。

 本題に戻りましょう。

TAISEI・AKIBA氏が紹介しているのは、浜田省吾『風の勲章』です。


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こちら2012年発売の映像作品とのこと。
「ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend"」より、「Rising Sun ―風の勲章」の日英歌詞字幕付きライブ映像。

映像作品とあって惹きつけられる画面が展開しております。


以下歌詞の一部。

過ぎ去った昔の事と
子どもたちに何ひとつ伝えずに
この国 何を学んできたのだろう

飽和した都会
集う家は遠く
ブラウン管の前でしか笑わぬ子ども

1945年打ちのめされ砕けた心のまま
1945年焼け跡から遠く飛び立った今

「この国 何を学んできたのだろう」・・の歌詞を政治家にばかりに向けて、自分を平和主義者に仕立てておくのは簡単ですが、
国が学ばなかったということは、私たち国民が学ばなかったということに等しいのだと思います。

また今の子どもたちはすでにブラウン管の前から離れております。
もっともっと刺激のあるものを手元に置いて、眺めたり、戦ったり、撃ち殺したりしているのではないでしょうか?

 Wikipedia内の浜田省吾の来歴を読んでみますと、今まで話題にしてきた時~学生運動から吉田拓郎まで~に彼も共にあり、活動をしていることがわかります。
時代は少しずつ動き歌の表現も変わってはくるものの、浜田省吾もこの時を生きてきた歌い手のお一人なのですね。
苦節の時を経てヒット曲を生み出したのは1979年のこと。日清カップヌードルのCMソングとして書いたシングル『風を感じて』が、折からのニューミュージック・ブームに乗り、ヒットしました。
社会派ロックへと路線を変えてゆくのは1980年代に入ってからということです。
89年、時代は平成に入ります。
浜田省吾は、昭和を生き“平成の平和ソング”を残した人と、いえるのではないでしょうか?

ヒロシマ

反戦というテーマが色濃いこちらの曲も紹介いたします。



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1986年の音源


浜田省吾広島県で生まれています。
お父さんは、原爆投下直後、救援隊として広島に入り二次被爆なさっています。

その父、戦前は特攻警察官であったということ。
特別高等警察は、日本の秘密警察。国体護持のために無政府主義者共産主義者社会主義者、および国家の存在を否認する者や過激な国家主義者を査察・内偵し、取り締まることを目的であった。敗戦時にGHQの指令により廃止された。)


そうなのですか!!!
となると息子省吾の活動は、父にとっては、長い間自分の職務として徹底的に取り締まった対象なわけです。
事実 息子の音楽活動に対しては、「アカ」というストレートな言葉で非難し、激しくぶつかった時期もあったようです。
Wikipedia)より。


以下八月の風の歌詞の一部です。


砂浜で戯れてる
焼けた肌の女の子達
おれは修理車を工場へ
運んで渋滞の中
TVじゃこの国豊かだと悩んでる
だけどおれの暮らしは何も変わらない

歌詞の中の「修理車を工場へ」は彼の実体験だとみてよいでしょう。
1972年に神大神奈川大学)に進学し、フォークソング部に所属するも、当時はまだ学生運動が盛んで、大学はロックアウトされたり、ストライキで休校されることが多かったのです。
こんな大変な時に親からお金を送ってもらうことに疑問も持ちはじめ、道路工事や、自動車のバッテリー工場などのアルバイトで油にまみれたのでした。1973年には事実上の中退。音楽活動にのめりこんでいくのです。


八月になるたびに
”広島…ヒロシマ”の名のもとに
平和を唱えるこの国
アジアに何を償ってきた
おれ達が組み立てた車が
アジアのどこかの街角で
焼かれるニュースを見た

「アジアに何を償ってきた」
このメッセージなど、今や迂闊に口にだせません。
これを自虐的であるという論調を前に私はすでに怯んでおります。
でも・・・敗戦したのは「日本」であったのに、国土を分割されたのは韓国だったわけで、今も休戦状態のまま民族が苦しむ現状に日本が無関係ではないこと・・・これは・・事実だと思うのです。


最後に・・・

はだしのゲン

「八月の風」に関連し、今の話題でもあるこちらを・・。
はだしのゲン」が広島県平和教材から削除されたというニュースがありました。
これに関する新聞記事です。


後記

本記事公開の数日後・・・Vergil2010さんによる次のような記事が目に入りました。
まずはここに貼ります。
後日改めて紹介できたら・・と考えております。
vergil.hateblo.jp