『あきない世傳』
思い出整理と処分を進めながら、次男にまつわる記事を書いています。
やっと数枚の絵を処分したところ。
在庫はまだまだありますし、ネタも残っておりますが、今回は別の話題を差し込みます。
カテゴリは「ノスタルジー」。
自分の幼少期に見た景色について書き残したくなったのです。
きっかけはこの本です。
最初の一冊を読み始めたら面白くて、今は第7巻目。
とある呉服屋さんの物語。
時は江戸時代、主人公の幸が、何とか知恵を絞って商売を繁盛させようとするお話です。
高田郁氏の作品では、『みをつくし料理帳』が知られているようですね。(kyoko未読)
ストーリーの面白さもさるものながら、季節や風景の描写が美しく丁寧で、しみじみとした気持ちになるのです。
よーい、よーい、
よーい、よーい、よーい
竹町の渡しを一艘の舟がいく、哀切に満ちた船頭の声を道連れに。
傾いた陽は背後にあり、眼前の川面に銀波を刻む。老いた先頭の操る舟が、心もとなく波間を漂い、それでも徐々に、向こう岸との距離を縮めていく。
少し先の浅瀬では、染物師と思しき男が膝小僧あたりまで水に浸かり、両の腕を動かして、反物を洗っていた。あれは木綿か、墨色の反物が川の流れに乗って気持ち良さそうに泳いでいる。
(『あきない世傳』第7巻より)
先日ここを読んだとき、ある情景がふいに浮かび上がりました。
幼い頃に・・・
それは川の流れに浸された布。
色とりどりの布なのです。
幼い頃、私は確かにそれを見た。
でも、それははるか昔のこと。
脳裏には焼き付いているものの、これは実在した風景なのだろうか?
私の思いは遠い遠い過去に向かっていきました。
横浜へ向かうバスからだったか?電車の車窓からだったか?
とにかく記憶に刻まれているのは、窓から眺めた風景です。
窓から南の方角にそれは見えました。
(幼い私が「南」を認識していたわけではありません。じぶんの記憶を追う今の私が「南」と判断しています。)
果たして川の中で揺らめいていた布は、私の幼少期に存在していたのでしょうか?
帷子川
さっそく調べてみました。
「横浜の川で染色」と打ち込みました。
『横浜染め』という言葉が出てきました。
横浜は染め物と縁が深い場所だったのです。
更に探ってみたところ、呆気なくその存在が明らかになりました。
「上星川」という地名も懐かしい。
私が見た川は「帷子川」でしょう。ほらね、横浜に繋がる国道16号線(黄色)の南側にこの川が流れています。
頻繁に利用した相鉄線(灰色)も、この道と川に並走するように走っています。
懐かしい相鉄線。
西谷駅から伸びる新線はこの春、3月18日に開通しています。
幼い頃から高校卒業時まで、数限りなく利用した「西谷駅」
駅員さんが硬券にパチパチ鋏を入れていた時代から利用していた駅でした。
懐かしくはあるものの、もう、私の知る姿は残されていないことでしょう。
さてさて、水洗の話題にもどりましょう。
河川での水洗は、渇水や大雨による影響を受けること、また水質汚染のもとになることから、1954年に、旭区鶴ヶ峰に共同で利用できる水洗工場が建設されました。
それが利用できるようになったことで、川で布を洗う作業は姿を消していきます。
おや??
水洗工場の建設は私の誕生前の出来事ですね。
(kyoko誕生は1958年・昭和33年のこと。)
しかし大岡川や帷子川では、川を利用した原始的な方法がしばらく続いたと書かれてあります。
昭和30年代には河川による水洗は行われなくなる。
(大文字はkyokoによる)
30年代のいつ頃姿を消したのかは定かではありませんが、私の極幼少期・・・・とはいえ見たものを記憶にとどめられるギリギリの年齢に、川を利用した反物の水洗いの歴史の最終時期がかろうじて重なったということですね。
さまざまな技術の進歩により、当時、「横浜スカーフ」は全国生産量の90パーセントを占めるようになった。
引用部分と当時の写真はいずれもこちらから。↓
hamarepo.com
そういえば、わが母、染めの施されていないスカーフの縁の部分を切り取る内職していたなあ。
横浜スカーフの最盛期だった頃だったのでしょう。
もう一つの風景
バスの車窓、または相鉄線の車窓から眺めたと記憶するもう一つの風景があります。
それはガラスの山。
回収されたガラスが色別に集められ山のようになっていたのです。
緑、青、茶色のガラスの山・・。
これも、確かな記憶なのか?
検索してみましたが、こちらは全くヒットしませんでした。